頼むから、ブラックペアンの竹内涼真の話をさせてくれ

ブラックペアンの竹内涼真のポジションへの違和感、それは紛うことなく「ここって中島裕翔のものじゃないの!?」である。

いや待てこのご時世、ブログの出だしを竹内涼真のドラマの中でのポジションの話にするバカがどこにいるかという話はある。福田元事務次官の話とか山口メンバーの話とかいろいろある。立場的にも思うところは色々あるしご時世的にこんなこと言ったら絶対よくないような気もするんだけど、それらはツイッターのタイムラインに転がしておくとして、私はどうしたってブラックペアンの話がしたい。文句がある人は出て来てください。誠心誠意謝りますから。

冒頭に戻ると、ブラックペアンの竹内涼真のポジション、あれは、20年前なら長瀬メンバーが、15年前なら櫻井翔が、10年前なら亀梨くんか錦戸くんか中丸くん辺り(雑)が入っていたところである。

天才に振り回され、苦しみながらも正義に燃える若くてアツい研修医。
ところが2018年、そこには竹内涼真がいる。

いや10~15年前なら小栗旬だって成宮くんだってあり得るよね!?みたいな反論もある。もちろんあり得る。だがそれ以上に、ジャニーズの誰かになる可能性が高かったと思う。なぜなら10~15年前ならキムタクか草なぎ剛くんであるところの二宮が主演なわけなので、バーター出演の可能性が濃厚であるからだ。

別にここで「ジャニーズの権力やっぱ弱体化してるよね」とか「若手ジャニーズの演技の才能がないんじゃないの?」とかクソみたいな管を巻きたいわけでは全然なくて、とにかく、そこは違和感だよねという話である。20代前半、演技も頑張っている、若くてアツい研修医が似合いそう。二宮とのバーター的に考えたらどうしたって中島裕翔である。

まあ、けど、ジャニーズバーター出演の経済的魅力を押し切ってまでもかつての小栗旬だの成宮くん的な立ち位置の若手俳優を使いたいところに来ているのかもしれない。松潤だって菅田将暉のこと「怖い」って言ってたし。

違うんだってそんなことはどうでもよくて、とにかく私はブラックペアンの竹内涼真の話がしたい。

陸王のときも言ったけれど、竹内涼真はいい。何がいいかって言うと、彼のあの理想的なルックスに甘えることなく、彼が演技に対して努力した痕跡と情熱が見え隠れするところがいい。そしてあふれ出るリアル感がいい。アツいときはアツい、だが普段ぼそぼそと喋っているところはまるで普通の青年である。もう、私がケガして入院したときにそこに研修医として存在し私の手を握っていないとおかしいレベルでリアルである。

知人がブラックペアンを観て「あの主人公、キワモノすぎて二宮君のいいところが出ていないよね」と言っていた。なんて二宮に対して理解のある知人なんだと思った。
私は世の中で嵐の二宮和也が最もいい男だと思っているけれど、今回のドラマに関して言えばだいぶ斜め上から、あまり魅力的ではないと感じている。二宮くんのすばらしいところは、「フツー」の青年、だけどどこかしら闇を抱えている青年、それを演じさせると右に出る者がいないところである。「腕のいい医者は何をやってもいいんだよ」と言ってのける天才外科医なんて、彼のような普通を使いこなす役者には到底簡単すぎる役どころなのだ。二宮が勿体ないぞTBS。怒るぞ。

つまり、この十数年間、二宮が巧みに扱いまくってきた「フツー」をブラックペアンで新たに使いこなしているのが、リアル感のある竹内涼真である。一方で、二宮くんは横暴な天才外科医という彼にとってはあまりに易しすぎる役どころを与えられ、驚くような才能を十分に発揮しきれずにいる。大丈夫か二宮。がんばれ二宮。

竹内涼真の話をしたつもりだったが最後は二宮の話になった。とにかく、ブラックペアンの竹内涼真はいい。そして、二宮和也は彼の突き上げに負けないでほしい。彼の才能で視聴者に驚きを与え続けてほしい。二宮くんのような天才は、ちょっとすごいくらいじゃもうみんな驚かないんだぞ。頑張れ二宮。私はあーだこうだ言ういち消費者でしかないので、斜め上から応援してる。

私は、サラリーマンになった。

卒業する高校の制服や、リクルートスーツに身を包んだたくさんの学生たちが、夢や希望を持って桜満開の季節を行きかう。

かつて私もそのひとりだった。

 

幼いとき、たまに赤い車でやって来るアウトローな感じのカッコいい親戚のおじちゃんは、フリーの放送作家だった。
小学生時代スポーツもとくにやってなかった私は、毎日テレビのバラエティ番組を見て育った。
中高の文化祭でオープニングの映像を一生懸命作って、1,000人の生徒の前で流したら講堂が震えるくらい熱狂して、近くにいた先生に失笑されながら泣いた。
大学でイベントづくりに関わって、自分が作った企画で笑顔になっている人たちをみて、「やっぱり私は、ものを作って人を喜ばせたい」と思った。
ずっと、私はいつか、映画かテレビ番組を作る人になるんだと思っていた。
そしていつかアカデミー賞だとかエミー賞だとか取っちゃったりして、世界的に有名になって……
私は何者かになった私を、夢の中に見ていた。

 

そんな夢あふれる小娘は、この3年間、広島で、メーカーの営業をやっていた。

 

百戦錬磨のおじ様方を相手に、「たいぎいのう」なんて言われながら、やれ契約金がどうの、やれ新商品がどうの、と、23歳の女が慣れない口調で商談した。
失礼なことを言って、得意先でたくさん叱られた。どうせ今まで叱られてこなかったんだろう。人の感情を考えながら発言しろ。
言うことを聞いて帰ってきて、事務所でたくさん叱られた。お前がやっているのは慈善事業だ。商売やれ。
頭の中が14歳の私は、このまま自分はどこにもいなくなってしまうのではないかと、怖くなって、黙った。反発した。
ありがとうと思わないとありがとうと言えなくて、ごめんなさいと思わないとごめんなさいと言えなくて、たくさん怒られた。

 

3年経って、気が付いたら、私は、たくさん頭を下げるようになっていた。

特に面白くないことで、おなかを抱えて笑うようになった。
特に感謝もしていないことに、ありがとうと言うこともあった。
特に悪いことをしていないけど、すみません、申し訳ないです、と言うこともあった。
毎日同じ時間に起きて、毎日同じ時間に同じ場所に、ちょっと堅めの服装で赴くことに、
組織から与えられたノルマを、歯を食いしばって追いかけることに、
自分の頭の中の世界と、実在する世界の違いに、
涙を流さなくなった。
たくさんの人に助けてもらって、組織から形のある評価を得て、海外に連れて行ってもらったりした。
私はちゃんと、目をそむけていた現実世界の一要素になった。

 

そして私はどこにもいなくなった、

…かと言うとそうでもなくて、今もちゃんとここにいる。
今もちゃんとここで、「いつか私が作ったもので、誰かを喜ばせたい」と思っている。

感謝してないことにありがとうと言ったって、
本当に助けてくれた人に、ありがとうと思う気持ちはなくならなかった。
悪いことしていないのにごめんなさいと言ったって、
本当に迷惑をかけた相手への、ごめんなさいの気持ちはなくならなかった。
私はどこにも行かなくて、私の気持ちも無くならなくて、
一方で、わたしを何者かにしてくれる、たくさんの人の気持ちと出会った。

 

ミスチルの櫻井さんが『擬態』で言ってる、
アスファルトを飛び跳ねるトビウオに擬態」したけど、擬態元の私はなくならなくて、
私と、擬態したトビウオとが、くっついて、大きくなった。
たぶん、「出鱈目を誠実をすべて自分のものに」できてきた。

バンプの藤くんが『ray』で
「大丈夫だ この痛みは 忘れたって消えやしない」って言ってた通りで、
一度自分とさよならする辛さは、何かに擬態したときも、別になくなるわけじゃなかった。
後で自分は戻ってきたし、ちゃんとまだ、自分とさよならしない人の気持ちだってわかる。

 

私は、私を失うかもしれない、若い痛みを忘れるかもしれない、サラリーマンになりたくなかった。

でも私は、サラリーマンになった。私も痛みも失わなかった。


私は、サラリーマンの私になった。
サラリーマンの私は、何者かを夢見た私だったときより、もっと強い。

『グレイテスト・ショーマン』を観て生まれたちょっとした不満(それはアートなのか、エンタメなのか)

「それはアートなのか、エンターテイメントなのか」という話がある。

自分の才能とセンスの赴くまま感情を表現する、あるいは問題を提起する芸術作品なのか。大衆の欲望や嗜好を徹底的に分析し、彼らをいかに喜ばせるかを追求した娯楽作品なのか。

 

グレイテスト・ショーマン』を観てきた。
あの映画は最初から当然のごとく、エンタメであることが決まっていた。

 

ラ・ラ・ランド製作チームの新作!」などという触れ込みだったので何を思ったか私は『セッション』『ラ・ラ・ランド』のディミアン・チャゼル監督の最新作だと思い込み、1年前からワクドキで公開日を待っていた。

『セッション』ではアートや美について、『ラ・ラ・ランド』ではエンタメとアートのはざまの葛藤について、監督…30代でなぜここまでの葛藤を乗り越えているんだ…というくらいのチャゼル監督の熱量を見たところだったので、また同じテーマについての同じだけの熱量が観られると思っていた。

しかも予告編に現れるテーマ曲「This Is Me」の歌詞。アートかエンタメか、に加えて、差別偏見とそれを乗り越える人たちの描写も入ってくるのか。号泣必至。チャゼル監督がその辺のことを扱ったらどう料理されるんだろう。期待値100000000。
――違う違う、チャゼル監督じゃない。その時の私に、誰かそう言ってくれ。

 

観賞する直前に映画のHPを眺めていて、ふと「あれ?」と思いスタッフのページを開いた。「そういえば、製作チーム!とは言われているけど、監督!とは言ってないよな」と。
ー当然のようにチャゼル監督ではない方のお名前。

 

いや、私が悪かった。私が悪かったよ。製作チームとしか書いてないのに、監督も同じだと勝手に思い込んでいた私が悪かったよ。でもさ、「製作チーム」ってでかく書いてある広告ページの下の方見たら小さく「音楽チーム」って書き変わってんじゃーん。その雑さはねーよー。最初から音楽チームってどでかく主張してくれよー。まあいいんですけど。

ラ・ラ・ランド』のように、大衆を考慮した数々の魅力的な歌とダンスの中に、チャゼル監督の才能や感情の爆発的な発露(=エンタメの服を着たアート)が隠されていることを勝手に期待してしまっていた私だったので、単純に「監督が違う(それは私の思い込みだった)」というだけの事実を自分の中で整理しきれずに観賞した。

 

「エンタメであることが決まっていた」と言ったけれど、最初から、あの映画はエンタメとして作られていたし、よく考えたらエンタメとして宣伝されていたし、事実最初から最後までエンタメだった。いやゴールデングローブ賞獲ってるしどこぞの島国の何も成し遂げてないクソOLが褒めるまでもないのだけど、ものすごくクオリティの高いエンタメだった。魅力的な出演者の方々の美しい歌声、とんでもない時間をかけて振りを練られレッスンされたであろうダンス、絢爛豪華な美術セットやCGでつくられた、色とりどりの背景や効果。まあ楽しい。見ていて楽しい。一方で「一念発起!成功!挫折!成功!(=起!承!転!結!)」がすごいスピードで進んでいくストーリーには、すこし辟易した。
「エンタメの服を着たアート」を期待していたことを整理できずに観た私は、複雑な気持ちで終わった。最初からあの映画を最高のエンタメとして受け取りに行っていたら、もうそれは全力で楽しめだろうな。

 

ここまで書き連ねてきたのは、クソ自分勝手な単なる勘違いから生まれた不満でしかないのだけど。誰かが何らかの形で発信するものは何でも、「それ」はアートなのかエンタメなのか、発信する側が規定して、さらに我々受け取る側がどちらか期待して、受け取った後もなお判断していく。その全てが合致していないと、まあまあ大変なことになる。『ラ・ラ・ランド』を面白くないと評する人が口をそろえて「あの流れならハッピーエンドが良かった」「音楽があったのが前半だけだった」と不満をもらしていたのは、そういうことなんだと思う。『ラ・ラ・ランド』については、エンタメとして宣伝されて、エンタメとして始まって、中からエンタメの服を着たとんでもなく強い主張が発現したので。

 

エンタメについては受信側にしかなりえない一般消費者として等身大で考えると、映画ってお客さんがチケット買った時点で儲かるから、商売としてはいかにチケットを買わせるか、なんだろうなーとは思うんだけど。チケットを買わせるための表現にくらいついて、『ラ・ラ・ランド』でも『グレイテスト・ショーマン』でも、少しだけ苦しむお客さんもいるんじゃないかなと思った。

映画配給会社だって営利企業だというのはわかってるので、「『ラ・ラ・ランド』は後半、監督がやりたいことをやった映画です」て言え、とか、「『グレイテスト・ショーマン』はラ・ラ・ランド製作チームの映画って言うなや」とか、そういう文句が言いたいわけではないんだけど。なんだかな。というざらついた気持ちだけが残った。

 

とはいえ、たぶん『グレイテスト・ショーマン』はもう一度見に行く。楽しかったので。今度は「エンタメ」という前提と一緒に、全力でエンタメを受け取る気で観にいきます。

 

※アートをやる側になりたかったけれど、自分にはそこまでの才能も力量もなくてエンタメを目指すことになった、みたいな、発信する側の社会人の葛藤についてはかっぴー『左ききのエレン』(webマンガ)にめちゃくちゃ描いてあるので「あ~はいはい、そういう話あるよね~』と思った人はすべからく全員読んでほしい。発信者としてのそういった葛藤は、作品を作るクリエイターだけでなく、すべての仕事に就く社会人全員が持ちうるものだと思っている。けど、それはまた別のお話。

結局のところ私の思春期なんて、修二と彰とヤンクミに支えてもらうしかなかったんだわ

このところ、ふと出身校について思いを馳せることが多い。

 

中高一貫・私立女子高である私の出身校は言わずと知れたお嬢様学校で、女子御三家にこそ入っていないものの「『御三家』のような低俗な格付けには参加しませんのですわ」みたいな寝言を言ってそうなプライドの高さがある。

 

グローバル人材を育成すると言って語学教育に力を入れる割に、貞淑な女性像を表現した校訓は「戦後」然としたままじゃないですか?みたいな違和感はあるが、まあそのあたりは老舗ブランドとしての価値なのでOK。むしろ、小学生のときその老舗ブランドの制服を身にまといながら、通学路でたまたま会った男の先生に「かんちょー!」とか言ってエアカンチョーギャグをしていたようなお嬢様学校の恥たるクソガキだった私でも人と普通に喋れる大人に育ててくれたので感謝している。あとこれ以上出身校のこと茶化してたら絶対誰かに怒られる。

 

最近考えているのは、出身校のお嬢様学校としての側面ではなく、女子校としての側面である。

 

「女子校」についてはここ10年で鬼のように語り尽くされているので、その特性について一般人OLが語るまでもないけれども、男の先生がいても教室で普通に着替える、雨の日は濡れたタイツをそこらへんに干す、お決まりの「暑い日のスカートぱたぱた」などなんでもありの環境は都市伝説ではなくまさにその通りである。最近はそんなに親しくない同世代の女性が集まるときはまず高校が共学か女子校かで盛り上がり、「男の目線など気にせず自由に生きてた我々」という謎のプライドを他の女子校出身者と共有するところから始まったりする。

 

いま書いたように、女子校出身者の言動やプライドはその「男が近くにいない」という厳然たる事実によってほぼかたちづくられている。当然、その状況があるからして14歳くらいの思春期のロマンスなんてのは一部の選ばれし女子たちにしか発生しえないわけで、むしろロマンスに対しては過激派の女子校生であった私は「彼氏がいる女はビッチ」というほどの認識だった。共学だった小学校で存在が近かった男の子となんとなくいい感じ♡とか、初めて行った塾で緊張していたら隣の男の子がステキな笑顔でリードしてくれて…!?キュン♡とか、今思えば自然な出会いの場なんていくらでもあったろうに、男の子と積極的にコミュニケーションを取っている女の子はスゲエ、むしろヤベえ、みたいなことを漠然と思っていた。なぜあそこまで極右だったのかはもはやよくわからない。

(多分自らの女性性を認知しながらも、それを使うタイミングが皆無だったから、同じ環境にいるはずなのに自分とは違い女性性を行使している女子がうらやましかったのだと思う。)

 

そんなわけで、特にこれといったSNSもなかった思春期を支えるものは、日常的に生きているだけでマスメディアから垂れ流され目や耳に入ってくるエンタメだけとなった。
すでに小6にしてNEWSやら嵐やらに熱狂してしまっていた私にとっては、2005年の小学校卒業・中学入学と同時に放送された「ごくせん」2期とともに思春期がはじまった。その夏には「ドラゴン桜」が放送され、中学校の友達にも慣れてきた10月に「野ブタ。をプロデュース」が始まった。そんなんさあー。踊るじゃーん。青春アミーゴー。Si おーれたちはいつーでーもー、って、教室の後ろのほうでみんなでやるじゃーん。ちょうど仲良くなってきたころなんだからさー。

で、バイセコー、バイバイセコー、とかいう、いかにも教室で流行らせたそうなドラマ内のネタに気持ちよくハマり友人と教室で再現しながら、同時期に「花より男子」のF4なら誰?とぎゃあぎゃあ盛り上がっていた。普通にどう考えても花沢類がいちばんかっこいいのに、「えー、ドラマなら西門さんでー、マンガなら美作さんかなー」とか言えばちょっと通っぽく見えるかなと思ってそう言ってた。どっちにしても花沢類だろ、当時の私。素直に認めろ。


そんな流れで中2では「クロサギ」「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」について毎週月曜日、中3では「プロポーズ大作戦」について毎週火曜日にクラスメイトと興奮しながら話していたわけだが、

いや、ここまで書いて思ったけど、山Pすごくね?

 

思春期たる中学生時代3年間に放送されたドラマ、毎年主演を張っている。私は特別に山Pが好きだったわけではないが、しっかりと私の青春時代に息づいている。ありがとう山P。ロマンスにたいして過激派の私はグレることも男遊びに憧れて夜の街に繰り出すこともなく、あなたのドラマと歌に支えられて思春期を終えました。ありがとう。あと亀梨くんも。ヤンクミも。この場を借りてお礼を申し上げます。

 

お陰で年末のジャニーズカウントダウンで「懐かしの名コンビが!」とかいうテロップのもと山Pと亀梨くんが修二と彰として出てくるたびに、親に呆れられながら帰省した実家で青春アミーゴを踊っている。こないだ「カラオケでオレンジレンジを歌う2000年代生まれに出会いたくない」とかちょっと達観した風なことを言っていたばっかりだけど、これだけは声を大にして言いたい。

 

10年後のカラオケでも青春アミーゴを踊らせてくれ!!!!!
普段がんばって生きてるから!!!!!
サビ全部踊れるけど、せめてSiってとこだけはやらせてくれ!!!!!
おばさん、仕事はがんばるから!!!!!

 

私たちの思春期なんて、彼らに支えてもらうしかなかった程度のものだけど、でも、教室の端っこで修二や彰やヤンクミや花沢類にギャアギャア言っていた思春期は、それなりに宝なのかもしれない。少しは受け入れてあげたうえで、で、カラオケではサビ全部踊るのは我慢して、Siってとこだけやろうな。それでもたぶん、ちょっとイタいけどな。

関ジャニ村上くんが夢に出てきたので、マツコと村上のちょうど良さについて考えた

関ジャニ∞の村上くんが気になっている。

 

なぜ気になっているかというと、一か月ほど前に彼が夢に出てきて、私と村上くんは夢の中でまるで付き合って8か月くらいのカップルかのようにいちゃついていたからだ。

寝ている私を起こすまいと村上くんが部屋を出ていこうとしたとき、え~待ってよ~と私が甘ったれて手を引っ張り、ベッドに倒れ込んできた村上くんとそのままいちゃつくという非常に微笑ましい8か月カップルの様子を体感したんだけど、ここまで書いて私はブログになんでこんなことを恥ずかしげもなく書けるんだろうと首を傾げているし、私はそもそも村上くんのことが好きではない。

好きではないというか、別に嫌いでもない。興味がなかった。
まあ大体みんなそうだと思う。「月曜から夜ふかし」でおいしくいじられているように、世の中の大半のひとは村上くんに感情を抱いていない。

 

だが、私は今彼のことがすこぶる気になっている。
ほとんど興味がなかった村上くんを夢に見た上にいちゃつく、ということは何かの暗示なのではないか?『寝たら夢の中あれもこれも見て 目が覚めたら 恋に落ちてることもある』(milk)ってか?aikoか?いやむしろ平安時代の貴族的に考えれば村上くんが私のことを好きで、それを伝えるために恋文代わりに私の夢に出てきているのではないか?
などとさまざまな思惑と葛藤しながら、いま永遠に月曜から夜ふかしの録画を観あさっている。

月曜から夜ふかしを永遠に見るくらい気になっているし、なんならこじるりとの熱愛報道について積極的に調べて積極的に落ち込んでいる。私はいったい村上くんのなんなんだ。

 

もうそろそろ村上くんについて書くこともないので、もともと別に好きではなかった彼のトークを観まくった結果感じた彼の魅力をいくつか提示して颯爽と終わりたい。

 

①自分のことを信じて疑わない
自分がカッコよくてキラキラしていると信じて疑わない。村上くんは他のアイドルのように超絶美形というわけでもないし、その場の空気が変わるほどキラキラしているわけでもないけども、一応アイドルなのでイケメンだし、オーラはある。そのくらい中途半端なので、彼のイケメンさとキラキラ度を決定するのはもはや彼自身の信じる力によるところが大きい。なので自分のことを信じている村上くんは偉い。

 

②いじられて爆笑する
村上くんはキレキャラでもないし、弱々しいキャラでもない。明るい関西人のにいちゃんであるところの村上くんが、マツコさんからのダサい男いじりにどう反応するかというと、基本的に爆笑している。爆笑して「そんなことないやろ~」「やめなさい」みたいなふわふわした反応をしてさらりと流す。みんな幸せである。普通に勉強になる。

 

③抑え切れてないけど、ちゃんと諌めてる
スタッフや観覧の女性客にマツコさんがキレたとき、「そんな怒らんでも~」「まあまあ、ねえ」などとちゃんと諌めている。それによってマツコさんが収まることはまったくないが、そうやって諌める彼の存在により、一度温度が上がった場の空気がゆるく着地している。タレントさんの空気の読み方には別に詳しくないけど、マツコさんも、番組によっては落ち着いた雰囲気で振る舞ったりされているので、彼がいるから爆発できるしおもろくキレられるみたいなところもあるんだと思う。

 

ここまで絞り出してみて思ったけど、村上くんはその存在感のちょうどよさがプロ級である。興味がないと言われることはもはや彼の名人芸だし、社会人として飲み会にいたらこんなちょうどよい存在感で強烈なキャラも(手綱を持たずに)スムーズに回せる人材は重宝されるだろうと思う。全社会人が憧れてもおかしくない存在である。やっぱりテレビに出るタレントすごいや。

 

今考えると村上くんが夢に出てきた原因は、本当はどう考えても月曜から夜ふかしのフェフ姉さんの出演回を連続で見続けていたことなんだけど。冷静に考えれば村上くんではなくフェフ姉さんが夢に出てきてもおかしくない。

村上くんが出てきてよかった。

ブス女芸人から、「ブス」という概念へのアプローチを考える

 男が女について「あの子面白いよ」と言うときって、だいたい「自分の『面白さ』を理解し肯定してくれる女だよ」の意訳に過ぎないと思っている。クソつまんないね。


「あの子面白い」と言われる女の子は、大体、男のギャグにちゃんと笑ってあげてるとか、男による容姿とか頭脳とか"女らしさ"に対するいじりに「ちょっとぉ~!」とか言ってあげてるとか、その辺が面白いと評価されている。

 
基本的には、「ブスも女としてそこに在れ」という社会的要請があって、ブスな女も男のクソつまらんギャグにちゃんと笑ってあげなければならないし、「ブスだなぁお前」というクソつまらんイジりに「ちょっとぉ~!」と言ってあげなければならないのである。
(まあ大体の場合、「ブスだな」って言う前に、お前の頭やたるんだお腹や脂ぎった顔や白髪を何とかしてから言えって感じだけど。)

 

そういう観点で女芸人さんを見た時に、「ブス」という概念そのものや、「ブスも女としてそこに在れ」という、単純明快な社会的要請に対してそれぞれまったく異なるアプローチがあるなあと感じている。

 

①「ブスな女」として生きることにより会得した男女観をアピールする性の体現者

大久保佳代子や、相席スタート・山崎ケイがそう。ブスから見た社会はこうだ、ブスはこうして生きていくべきだ、という持論を展開することによって、「ブスが何言ってんだ」という男からの嘲笑、あるいは、「めっちゃわかる!」「参考にしよう」という女からの共感を得ている。社会的にブスだからこそ、感じてきた苦悩や男女関係についての諦観を逆手にとって武器にしている。芸人だけではなく、女としても使える技なのかもしれない。

 

②ブスであることそれ自体を使って笑わせている、メンタルが破壊的に強靭な猛者
近藤春菜森三中・大島、いとうあさこはすごい。自分が社会的にブスだということを理解したうえで、それを積極的に、真正面から利用している。笑いの沸点が低い大体の人はこれで満足させることができるので労力という意味でのコスパは良い。一方で自分を積極的に貶めることによる精神的ダメージが破壊的に大きいので、余程腹を括ってないとできない。ブス的に全力リスペクト。


③ブス(デブ)という自認にはあまり言及せず、周囲からの評価を獲得するブス界の勝者
これに至ってはもはや芸風には関係ないが、ブス(あるいはデブ)へのアプローチでいうと柳原可奈子森三中村上・イモトアヤコは適切な距離感を保っていると感じる。自分からブスやデブであることにあまり触れないことにより、「痩せたらかわいい」「よく見るとかわいい」など、男女問わず「自分は人を表面的にはなく本質的に見ることができる」とアピールしたい人から評価されている(彼女たち自身がそう評価されたいかどうかは別として)。

 

私は①と③の雑種ブスだけど、私の話はどうでもいいので置いておくとして、いずれにせよ、①~③すべてが冒頭に書いた「ブスも”面白い””女”たれ」(社会的に醜いお前も、俺たち私たちの要望や価値観に従順に応えるジェンダー的メスであれ)という二重に自分勝手な要請にキレイに応えている。

 

別に私は、日本ではそうした社会的要請がなくなるとも思っていないし、無くしたいという意欲もない。こうした枠からはみ出て独自の世界観を創出するのが一番正解なんだけど、そうすることができずに自分の立ち位置を見極めかねているブスは、①~③の態度をむしろ参考にしてもいいんじゃないの、とすら思う。

 

ただね、①~③のような女芸人さんの態度はあくまでテレビの中の話であり、それによってさっきから何度も言っている「社会的要請」が形づくられていることは誰もが認識しなければならないとも思う。テレビの中の話だから、これが現実にそのまま再現されるかといったらそうではないし、彼女たちは「お金になる」とか「それで皆が笑ってくれる」という生きがいによって積極的にやっているけど、世界の誰しもがそうだというわけではない。


それは、男も女も問わず、日本社会に生きる人みんなが、「わかった上でやる」ことが必要だよね。とは考えてますね。以上。

渡辺直美が称賛されるのは「女の子を楽しんでいるから」ではない

渡辺直美の魅力について、一度真剣に考えなければならない。

彼女が、米英VOGUEとその読者からあまりに賞賛されまくっている件である。

インスタアカウントのフォロワー数は日本一の763万人、ニューヨーク公演のチケット300枚は即完売、昨年米VOGUEのYoutubeチャンネルで公開されたメイク動画は全世界で270万回再生。

2日前には英VOGUEで「日本女性の既成概念を破壊する存在」と特集された(グラミー賞歌手と共演した、Gap公式のLogo remixというキャンぺーン動画の宣伝。)

 

往々にして日本のメディアは、日本のものが世界で受け入れられると、とりあえず狂喜する。おかげで、「渡辺直美は魅力的だ」という固定概念が日本中に蔓延し、独自の世界観を創出しグローバルに活躍する世界的なアイドルと大絶賛されている。

で、だいたい彼女は、「渡辺直美は容姿のコンプレックスから自らを解放し、女の子を楽しんでいる」みたいな感じに表現される。容姿が美しくないとか太っているとか、表面的にはアレだけど、自分らしい美しさを求めているのは、「女性として」魅力的。みたいな。

(彼女がプロデュースしたブランドPUNYUSも、「女の子の持つ感情を表現する」とか言ってるから、まあしょうがないんだけど)

 

渡辺直美は、「自らの女性らしさを楽しもうとしている」姿勢をVOGUEから評価されているのかどうかについては、明確に、否、といいたい。

 

英VOGUE公式アカウントで上記コメントが扱われていることからも、彼女は、女ではなく、「『渡辺直美』を楽しもうとしている」という点において評価され、取り上げられているんだと思う。

 

この記事を思い出した。(以下引用)

 

ポリティカル・コレクトネスの問題って、別に政治的、社会的な問題だけじゃなくて、逆らうことのできない商業的な要請でもあるんですよ。

好成績を続けている『スター・ウォーズ』の主要キャラクターが女性や黒人の若者なのもそうだし、去年世界で最もヒットしたアメコミ映画が『スパイダーマン』でもヒーローが総結集した『ジャスティス・リーグ』でもなく、単独女性ヒーローの『ワンダーウーマン』だったのもそう。

ポリティカル・コレクトネスに配慮しない作品が、だんだんお客さんから見向きされなくなってきてる。

 

現代ビジネスの威を借りて、あえて誤解を恐れずに言えば、ポリコレそれ自体ではなく、社会的に絶対善と判断されているポリコレ的価値観に「賛同すること」が、善、もしくはスマートな態度だという風潮がある。特に米英では。

同じ女性を肯定する文句でも、「見た目が美人じゃなくても、スレンダーでなくても、男の子っぽくても、女性らしさは楽しめる」みたいな日本の女性誌的な価値観は、世界基準から言えばもう古い。
要するに商業誌VOGUE UKからすると、そもそも「男か女か」という判断基準が古いという姿勢を取らなければ現代的かつスマートではなく、評価されない中で、「『女』を楽しんでいるかどうか」という尺度はもはや博物館レベル、というわけだ。

渡辺直美Twitterで引用されているコメントでもあるように、「日本人でもなく、女でもなく、渡辺直美である」という一貫した姿勢を取っている。「性別:クソ、美醜:クソ、その判断基準から外れて自分を生きよう」というザ・先進国、ザ・欧米な価値観を全活動を通して明快に肯定しているからこそ、彼女を扱うことはVOGUEにとってステータスになるのだ。

 

日本の女性芸人たちは、どちらかというと「男女」「美醜」「女らしさ」という日本の古き良き価値観を利用して笑いを取りに行く傾向が強い。("ブス"女芸人の美醜に対するさまざまなアプローチについても考えたのだけど、それはまた別のお話なので次に書く)

渡辺直美は、面白いとか、歌やダンスやファッションのセンスがあるとか、そういうのを抜きにして(そういうのはもちろん加点要素としてあるけど)、
「美しさ」の評価基準、あるいは、「人間」に対するアプローチの仕方が、他の女芸人と一線を画している理由に繋がってくるんだと思う。

 

美しさは個性であって、私はこの世で一番美しい人は自分を愛している人が美しいと思っているので、見た目だけの美しさじゃなくって、自分を愛して、自分に自信がある人が美しいという風にremixしてます。だから私は、美しい。

(Gap キャンペーン動画"Logo remix"のメイキングインタビューでの、渡辺直美の発言)

 

とのこと。欧米的だね。