任天堂は、全世代の思い出にいつもカメラ目線で見切れてくる

Nintendo Laboが発表されて、当たり前に日本が熱狂している。

hamusoku.com

私自身もコンセプトムービーを見て「どんな天才がこれ考えたんだよ」と思ってしまった。遊びの場を画面から飛び出した世界に移す発想。子どもの創造力と探究心を養うゲームはもはや害悪ではないという親への啓発。ケガしないし、壊れてもすぐ直せる身近な素材から滲み出る「優しさ」…そんでそれらの魅力をドヤ顔で表現したカッコいいPV。企業ブランディングとかマーケティングとかそんな詳しくないけど、その辺の意味で完璧だ。いったい何人の秀才が集まって考えたんだこれ。そんな尊敬のまなざしが任天堂に向けられている。

 

「段ボールでコントローラー作れるようになるだけなのに、なんでそんなに熱狂するんだよ?」みたいな意見もある。確かに煽りすぎの感はある。でもあの企業はもはや長嶋茂雄とかミッキーマウスみたいなもんで、何をやったっていい方向に転ぶ崇拝の対象になっている。

 

コロプラを提訴しただけで「任天堂の法務部はコワいぞ…」みたいにいくつかの"伝説"が語られるような状況だし、そこから派生したタグ「#任天堂を許すな」にしたって、世の中の誰もが任天堂の、たとえば子どもへの神対応を、たとえば辛い時期の自分に笑顔をくれたクリエイティビティを語っている。Switchが欠品していたのだって、よく考えれば情けない話だ。単にそんなに売れる想定をしてなかったから製造数を絞ってたら、思ったより需要があって困ったことになっちゃったっていう流れのはずなんだけど、それもそれで「新しい発想でつくられたSwitch大人気だし任天堂ホント神様」みたいになってるし、もうアレだ、何やらかしたって良い印象になる。

 

なんでかっていうとたぶん、日本人に「任天堂と私」というテーマで作文を書かせたら、8割方の人は400字詰原稿用紙5枚は書ける、そういうことなんだと思う。

当たり前なんだけど、いつだって任天堂は私たちの傍にいて、新しい驚きを提供してくれた。たとえばそこに牛乳パックがあったとして、私たちはそれを開いてゴミにすることしか知らなかったんだけど、任天堂はそれと割り箸と輪ゴムを合わせてロボット人形を作る方法を教えてくれた。たまにフラっと現れて、ちょっと変だけど面白いことをたくさん教えてくれる近所のおじさんみたいな、漠然とした憧れと期待を抱く対象としてそこにいた。わくわくさん任天堂は、小さい頃の私たちにとってほとんど同じ遊びの先生だ。
だから皆、任天堂に対してでろんでろんに甘いんだよ。だってさ、常に私たちを感動させて世界を広げてくれた、わくわくさんのこと誰も批判できないじゃん。多分わくわくさんが不倫したって誰も叩けないよ。そういうことだと思う。死のうと思ってたときに任天堂のゲームが励ましてくれたとか、子どもが修理に出したら無償で直して返してくれましたみたいなそういうインパクトのある体験をしてない人でも、思い出を映像で振り返ると画面の隅っこにNintendoの文字が写っている。ポジティブな潜在意識の中にすっと入り込んで思い出に登場しやがるから、そりゃあ誰だって甘やかすよ。

 

私だって、エピソードを挙げろと言われたらいくつだってある。ホームビデオを観返したら3歳のとき骨折した足を机に置いて支えながら真顔でスーパーファミコンをやっていた(骨折してたって楽しいことは任天堂スーファミの中にたくさん隠しておいてくれた)。ゲームボーイカラーポケモンプテラをゲットしたのに、レポート書かずに電源オフしちゃったから姉に死ぬほどキレられて泣いた(ポケモンによって収集心と冒険心を教えられた私たちは、レアキャラを手に入れるのがこんなに難しくて達成感があることだなんてそれまで知らなかった)。小学生の時1回だけ64で家族みんなでマリオパーティーやったのなんか「わ!家族でマリパやってるのゲームのCMみたい!」と興奮したからすごい覚えている(小学生でメタ認知してるの気持ち悪いけど、それだけ自分のその状態が新しかったんだと思う。ゲームは一人で悶々とやるもの、という概念が幼心に覆されたんだろう)。

 

私たちと一緒に生活してきた任天堂は、私たちの子ども時代の記憶、10代の記憶の中にはっきりとその影を残している。ほかのオトナは教えてくれない、新しくて変わってるけどめちゃめちゃ面白い遊び方を教えてくれる変なおじさん。的な。私たちにとってはある意味で完成された「任天堂」像がもう出来上がっている。ポケモンGOだったりスーパーファミコンミニだったりの発売は、任天堂の思い出を持つ世代が一巡しきっていることを明確に把握している彼らが、我々の「任天堂」像に笑顔でアンサーしていることに他ならない。よね。だからさ、そんなことされたら好きを反芻するって。

 

そして彼らはさらに先に進んでいく。どういうことかって、一巡した我々のことはそれはそれで満足させておきながら、次の世代の生活に入り込み、一緒に思い出を作り、また新たな「任天堂」像を作らせようとしにきている。それがきっとNintendo Laboなんだ。彼らは2018年の子どもたち、10代たちの記憶映像の中でも、近所のオモシロいおじさんよろしく、しっかりとカメラ目線で見切れてくるわけだ。
その意思がひしひしと感じ取れるから、だから私たちは無条件にLaboに熱狂してしまうんじゃないだろうか。はあ、お前、また子どもたちに容赦なく思い出を与えるのかよ。俺たちにしたのとまったく同じように。もうやめてやれよ。くっそ。みたいな。

 

なんにせよ、任天堂がつくる遊びは私たちに活力を与えてくれる。Laboが次にどんな二の矢を打ってくるのか、楽しみにおとなしく待とうね。

HIKAKINはすでに大御所なのだ(平成はもう終わっている)

Excelで計算式を入力し計算結果を出したあと、電卓で検算しろという会社員がいる(らしい)。

メールが使えないから、資料はFAXでやり取りしたいという会社員もいる(らしい。アメリカではFAXは博物館に飾られているらしい)。

話題の大相撲行司セクハラ事件について、とくダネ!の小倉さんは「なんで内々の話でとどめられなかったのか」と発言し批判を受けた。(バイキングでの70代男女に対するインタビューで、一般人も「酒の勢いでやったことで」「セクハラ程度でこんなに騒がなくても」というようなことを発言していたので、これは小倉さん個人の価値観ではなく、60代70代の方々にとっては一般的な価値観なのだろう)

「みんな同じ顔してる」と大人に言われながらAKB48に熱狂していた私たちは、欅坂46の平手さん以外のメンバーをあまり知らない。

ポケモンならアンノーンの種類まで含めて何百匹でも覚えられた私たちも、ジバニャン以外のようかいウォッチキャラの名は聞かれてもわからない。

 

ムラ社会に住む私たちはいつだって、自分が慣れ親しんだ社会の外で起きている現象には追いつけない。

 

いつかの『水曜日のダウンタウン』で「下層YouTuber地獄説」という企画を観た。

企画の初っ端で、中間層のYouTuberを見てみよう、と登録者数約30万人の「たいぽん」というチャンネルの「ひとつの飴を3人で舐めきる」という動画を「地獄」と評価していた。たしかに、3人の男がキスで飴を渡しあって舐めていく様子をただ撮っただけの動画は私から見てもまったく面白くなかった。

だが、たいぽんにはたしかに30万人のファンがいるのだ。Twitterのフォロワー数も約24万人。「地獄」である彼の動画は間違いなく中高生から評価されている。

 

中学校の教師をしている知り合いが「教室で流行っているのはモンストかジャニーズかはじめしゃちょーかワタナベマホト」と言っていた。モンストはゲームアプリ、はじめしゃちょーとワタナベマホトはイケメンYouTuberである。本旨とはずれるが、この中に毅然と名を連ねるジャニーズってすごい。(ちなみにいまだに山田涼介くんが人気らしい)

 

ミヤネ屋が平成生まれに聞いたという「平成のカリスマランキング」では、羽生結弦安室奈美恵を抑えHIKAKINが3位にランクインしていた。

我々の傍にテレビで観るお笑い芸人やアイドルがいたように、彼らの傍にはスマホで、あるいはパソコンで観る、YouTuberがいる。

そんなわけでYouTubeは既に、ひとつの文化になっている。

 

17年に人気急上昇した2人組YouTuber「水溜りボンド」は、事務所内で撮っているある動画のなかで、突如横を見て「ハッ」と顔を強張らせ、すくっと立ち上がってお辞儀した。その後にカメラに向かって呆然と発した言葉は「今HIKAKINさん通りました…」。

どうやら、日本のトップYouTuber・HIKAKINが事務所の廊下を通る様子が部屋の中から見えたらしい。おそらく彼は部屋の中にいる水溜りボンドに気づき、手でも降って通り過ぎて行ったのだろう。

同じく急上昇中の4人組「アバンティーズ」の1人のメンバーは、ある企画でHIKAKINの家を訪問することになった際、顔を真っ赤にして「(カメラを)回すのも恐縮です…」「(ソファーに)座っちゃった…」「(マカロンを出してくれたHIKAKINに対して)もてなさないでください!」と興奮していた。

 

私たちはHIKAKINをはじめとするYouTuberの動画を見て、心底つまらないと感じる。アラサーのぽっちゃりしたおじさんが200万円のおせちを食べたり、400万円純金のハンドスピナーを回したりすることの何が面白いのかわからない。

だが、今の小中学生にとっては、それらは「常にそばにあるもの」であり、彼らは「友達」。ただ、「そばにあるもの」という文化を初めて創り出したHIKAKINは、彼らにとって「神」である。

ライター武田砂鉄のcakes連載コラム「ワダアキ考」の中でも、「そもそも彼は『面白いかどうか』という基準を一番にはしていない」「HIKAKINは小中高生に向けて『ほっとする時間』を提供している」と考察している。

いかに、流行の主人公である若者と身近にあるか、がYouTuberの課題。そんなYouTuber観をHIKAKINが創り上げ、実際に、彼は毎日、学校帰りの小中学生の傍らで生きるようになった。水溜りボンドやアバンティーズがHIKAKINに対して恐縮するのはただ単に業界の先輩だからではなく、「子どもと10代が日常的にYouTuberとともにある」という現代の文化を創り上げたいちばんの立役者であるからこそだ。

HIKAKINは小中学生にとって、明石家さんまと同等の、いやもしかしたら明石家さんま以上に「大御所」の認識なのだ。

 

YouTuberの動画を面白くない、地獄だと表現するわたしたちの価値観は、Excel検算おじさんやセクハラ肯定70代やピカチュウ以外ポケモンわからないおばさんのそれと一緒である。YouTuberにとって、我々の価値観や評価など必要ない。

いまの小中学生、すなわち今後社会をつくっていく小中学生にとって、YouTuberの存在は「普通」。HIKAKINは大御所。たぶん、そのうち、HIKAKINとはじめしゃちょーとヒカルでBIG3とか言われるようになる。明石家さんまタモリビートたけしみたいにね。

 

SMAPが解散し、安室奈美恵が引退し、『めちゃイケ』も『みなさん』も終了する。平成が終わる。

HIKAKINがレールを敷いて、いわゆる「若手YouTuber」が次の時代を創っていく。そしてわたしたち平成のオトナは、すでに価値観が古いということを認識しなければならない。

 

と壮大なことを言ってみようと思ったのは、土日をYouTuberの動画を観て過ごしていると話したとき、だいたいの友人に「小学生じゃん。暇かよ」と笑われて実際クソ暇なので何も言い返せず辛かったからである。私が普通にYouTuberにハマっているだけで、本当は特に問題提起とかするつもりは毛頭ない。ただ、会社員のように休日もなく、好感度を気にしながら毎日動画撮影して編集しているYouTuberの皆様には頭が上がらない。いつもご苦労様です。

 

今日、成人式を迎えるブスたちへ

今日成人式を迎える、弱冠20歳の、残念ながら容姿に恵まれなかった女性たち、あるいは自分の容姿に自信が持てない女性たちに伝えたい。コミュニティが被っていないので多分伝わらないけど。

 

美人の隣で写真を撮れ。インスタで公開処刑されることを恐れるな。皆もうお前のことはブスだとわかっているし、美人かブスかという尺度では見ない、めでたいという感想しか抱かない。
あえてブスの隣で撮った振袖写真をアップしている美人は、ちゃんと「公開処刑する性格ブス」という認識になる、ちゃんとなる。皆わかってる。大丈夫。

自信を持って派手な振袖を着ろ。本当はキラキラしたのを着たいなら、自分に自信がないからといって、無地とか暗い色とかなんかそういう、違う土俵で闘おうとするな。「みんな明るい色のキラキラした振袖を着ている中、ちょっと他とは違う感性の持ち主」みたいな立ち位置に自分を置こうとするな。なかなか着られない振袖を着る機会なんだから、ちゃんと好きなのを着ろ。同じ土俵に立て。今日はみんな主役だ。
ほんとにキラキラしたのが着たくなくて無地とか、暗い色とか、ドレスとかを着たいんだったら、別に全然いいけど。それは、ね、ホントいいことだと思う。

久しぶりに会う地元の男友達に狼狽するな。ヤツらが「あいつ可愛くなってね?」みたいな会話をこそこそしているのを見て、「絶対私じゃなくて○○ちゃんのことだ…」と思い込み勝手に落ち込むのはやめろ。成長してちゃんと化粧して髪セットしておめかししているんだから、お前も含めて全員幼子のときより間違いなく可愛くなっている。

 

相変わらずブスだなみたいなこと言ってくるヤツがいたら、10年も経ってもう成人するのにお前は人を容姿でしか判断できないその浅薄な性格が成熟しなくてかわいそうだなと言ってやれ。ちなみにお前の持つ容姿の判断軸で評価するならお前は自分が思っているほどイケメンじゃねえし○○くんの方がモテてるぞと言ってやれ。

 

20歳になっても、30歳になっても、40歳になっても、人を容姿でしか判断できない浅はかな人は存在する。

 

この先、お前のことをブスだと言う人はごまんといる。
それを気にしてしまっている時点で、自分も、自分を容姿でしか判断できない浅はかな判断基準に縛られた人間になっている。
美人不美人の枠から抜け出せ。全力ではじけ飛べ。

人間、人から見て不快ではない清潔感さえ持っていれば、どんな見た目だって、何を考えていたって、何をしたっていい。

 

でもね、こんなキレイごと言ったって、無理なんだよね。私だって無理だし。一度誰かに言われて、一度自分のことをブスだと認識してしまったら、それ以後、容姿を気にしない世界にはもう戻れない。どこにいても、何をしてても、「自分はブスだ」という前提のもとに行動する生き物になってしまう。

 

美人かブスかという尺度で世界を見ない人に戻りたいよね。いいよね、どこからどう見てもブスなのに自分をブスだと認識してない人って。幸せそうだよね。ムカつくよね、結構美人なのに「私ブスだから~」とか言ってるやつ。ブスに謝れって感じだよね。(関係なくなってきた)

 

この先の人生、ブスだと言われたら、(お前に言われなくてもわかってるわ)と思いながら、ちゃんと無視しろ。場の空気が冷めると思って、ツッコんだり、ニコニコしなくていい。そして、粛々と仕事しろ。自分の役割をこなせ。粛々とやることをやり続けて、そして、お前が学生や社会人として属しているコミュニティで、自分の立ち位置が明確になったら、ちゃんと言ってやれ。お前より頑張っている。お前がそうやって人を浅はかに判断している傍で、自分は自分の役割をしっかりこなした。そこに、ブスなことは関係あるかと。

 

そう言ってやれるときがくること、そして、ブスだと茶化してくるそいつが、死ぬ時がくることを全力で待て。よくわかんないけど社会の動き的に、どうせ、もうすぐ死ぬから。死んでいくのを爆笑してやれ。

 

その時を待ちながら、ちゃんと頑張っていれば、ちゃんと幸せになれる。
美人に甘えている美人よりも、イケメンに甘えているイケメンよりも、確実に幸せになれる。
人を美人かブスかでしか判断できないバカよりも、ブスでふて腐れているブスよりも、確実に幸せになれる。
幸せになったもん勝ちだ。
まだまだ人生は長いし、いろいろあるんだけど。がんばろう。

 

二宮和也は多分サイコパスであり、ゆえに紅白は平和だったし彼は魅力的なのだ

2017年の紅白歌合戦は終始平和だった。
 
平和なオープニング映像に始まり、平和にクソすべっているコントを繰り広げ(宇宙人総理が出てきてYoshikiに「本当の総理が来ると思った」とか言われたらリアルな勘違い過ぎて皆閉口するしかないが、それもそれでしょうがないね〜みたいな空気に終わり)、高橋一生吉岡里帆が平和に壇上からステージを眺め、日本全国が平和にひふみんを心配し、安室奈美恵が平和に涙を流し、桑田佳祐が平和に歌唱力を披露し、白組が久々に勝利して平和に幕を閉じた。
 
2016年も同様に、平和なオープニング、平和なクソすべりゴジラコント、マツコとタモリの平和にまあまあ面白いミニコント、新垣結衣の平和な不貞腐れ恋ダンス(クソかわいい)など様々な平和要素があったが、2016年と2017年とでは、決定的に違う何かがあった。
16年も17年も、同じように平和であったにも関わらず、17年の方が圧倒的に安心して観ていることができたのだ。
 
その違いは、相葉雅紀二宮和也にある。
 
5分に一回噛み30分に一回段取りを間違え隣の有村架純は若干不機嫌になり、挙句の果てに大トリで、公共放送に映っている35歳の大の男が司会の不安から解放されたことでメンバーに微笑まれながら泣き散らかす(まるで学校からお母さんのもとに帰ってきた少年のようだった)というエンディングを迎えた16年。
(誤解のないよう言い添えておくが私は中高生のころ嵐のコンサートに通っていたライトな嵐ファンであり16年紅白も激しくニコニコしながら観ていた)
 
まったく対照的な17年は、終始一貫したテンションで淡々と進行する二宮が常に番組の手綱を握りしめていた。
NHKから指示されたからであろう、「総合司会って何なんだろうね?」と困惑しながら仕方なくクソすべりコントを披露する内村光良に代わり、二宮はほぼ総合司会のような形でひふみんのまとまりのないコメントをぶった切り、いつも通りに嵐としてのパフォーマンスも淡々とこなし終えていた。
(ひふみんにコメントを振っておいて途中で切るなんて大変失礼だ、という批判もあるし、私も失礼だと思ったが、番組の進行上あれはもっとも仕方のないことだったし、あそこまでのぶった切りを嫌味なくネタであるかのように実践できるのは嵐二宮しかいない)
彼の横で有村架純も、さぞ安心して進行に打ち込むことができたであろう。微笑みの強度に16年との有意な差を観測できた。
 
そんな安定感の猛攻の中で、二宮和也を最も象徴していたのが、開始後まもなくの「三津谷寛治」コントのワイプである。「忖度」「暴力」「差別」などの文字を掲げた全身タイツマンを「あ!NHKの敵だ!」と言いウッチャン扮する三津谷寛治が次々倒していくコント。全国の視聴者の方がどう感じたかは知らないが、すべてのクソすべりコントの中で個人的にはこのパフォーマンスが一番すべっていたと自信を持って言える。
そのコントのワイプで表情を抜かれた二宮和也は、あからさまな「冷笑」を浮かべていた。「あーあーなんだよこれすべっちゃってるよーNHKどうすんのこれクソつまらないよー大丈夫かー」とでも言いたげな冷笑を浮かべていた。
そして彼は、2秒ほどで自分がワイプに抜かれていることに気づき、残り3秒を最高のアイドルスマイルに戻ってやり過ごした。この5秒間が、嵐二宮を、紅白歌合戦5時間を終始平常心でこなし切った二宮を、象徴していると思っている。
 
つまるところ、二宮和也サイコパスなのだ、多分。
彼は相葉雅紀のような人間の心を持たない。
彼にとってアイドルは職業であり、司会はその延長で受けた「業務」であるので、思い入れを持つ必要がない。だから紅白の司会も緊張なしに終えられるし、彼の魅力はそこにあるし、私個人の話をすれば二宮和也に魅力を感じ始めて十数年になるが、彼を愛する理由はここに凝縮されている。


二宮は自身がコンテンツだという自覚を持っている。持った上で、アイドル=コンテンツとしての「二宮和也」以外の彼を表出することはない。業務としてのアイドルを全力で全うすることにつけては他のジャニーズタレントも同じだが、彼ほど器用に自分をアイドルで覆い隠す人はいない(ような気がしている)。
そしてファンは、彼の中身に惹かれていく。二宮和也とはどんな人間なのか?彼の弱みはどこにあるのか?だが、彼の中身にたどり着くことは永遠にない。私たちは彼によって、二宮和也から提供される「ニノ」を楽しむことしか許されていないから。とはいえバラエティでの彼はあくまで”自然体”なので、二宮くんの人間としての本質が、見えそうで見えない、ぎりぎりのところでひた隠しにされる。そのもどかしさや歯痒さや焦らされ感、だが「ニノ」に没頭してしまう悔しさ、そして絶対に二宮和也を見せてくれない彼へのもはや畏怖にも近い尊敬。私たちと対等な近い存在と見せかけて、絶対的上位にある彼の存在。
二宮和也は、絶対に彼のもとにたどり着けない私たちを常に上から見下ろしているのだ。きっと、NHKのクソすべりコントを見ていたような冷笑で。
 
だが彼は私たちに会う時、ワイプにおいては2秒で作れたスーパーアイドルスマイルを浮かべている。そこに、楽しいとか嬉しいとかいった義務感以外の感情は一切含まれていない。けれども、そのスーパーアイドルスマイルと、「ニノ」のパフォーマンスはあまりに優れていて、私たちは抗いながらもそれに魅了されてしまうのだ。(まあとにかくね、器用な人なんだよ。だから、"自然体"と見せかけて、えっそれ作ってるよね?えっ自然体じゃないよね?えっどっち?みたいなのが無感情にできるんだよ。)
 
二宮のそんなサイコ的な一面のお陰で、17年の紅白は平和だったし、彼は魅力的で、きっと今年も業務としてのアイドルスマイルを顔に貼り付けて、数々の大役をこなしていくのだろう。
 
まあなんだ。そんなようなことを考えられるくらい、平和に18年を迎えました。
今年もなにとぞよろしくお願いします。

カラオケでオレンジレンジを歌う2000年代生まれに出会いたくない

オレンジレンジはもはやTUBE」

 

大学の後輩が、音楽フェスで偶然会ったときにそんなことを言っていた。ここ2~3年で聞いた言葉の中で、5本の指のうちの小指くらいには当てはまる名言だと思った。

 

「まあそんな感じでね、お分かりの通り、僕ら一年中夏やってるわけですけどもね」その音楽フェスで、ORANGE RANGEのボーカルHIROKIは自虐ネタとしてそんなことを言っていた。バカ受けしていた。

 

――エレファントカシマシのステージが終わったあと、私はUNISON SQUARE GARDEN、後輩はRIP SLIMEのステージを観たいと思っていた。お互いデートで来ていた私たちが偶然出くわした。両方、観たいライブが始まるまで2時間近く空いていた。そんな折、タイムテーブルに光ったのは「ORANGE RANGE」の文字だった。

 

いや、いやいやいやいや。別に、好きとかじゃなくて。いやまあ別に、オレンジレンジを見に茨城まで来たわけでは、まあないんだけど。まあ、ねえ。時間空いてるし、ねえ。

いそいそと会場に入り、後ろの方で澄ました顔をして始まるのを待った。そして、時は来た。

 

いいね快晴じゃん、雲一つないよ、真っ赤な太陽、君を知りたいよゥ、後はオレ等次第、今日は抱きしめたい、波打ち際の、

 

まで聞いたところで、体は勝手に飛び跳ね、握りしめた拳は言うことを聞かず天を突き上げ、唇は自然と動き、「アツイ!!!!!!ケツイ!!!!!!!!」と大声を放っていた。

爆音で突如始まった『上海ハニー』に、92年生まれの私の体は血流と筋肉と声帯を乗っ取られ、もう表現が面倒なので色々と割愛してパリピ風に表現するならとにかくブチ上がってしまったのである。サビが始まった瞬間、「しゃーんはいはーにーとぉ、はーまーでしゃーこーだぁんす」とか満面の笑みで歌いながら手をぶんぶんと振り回しており、つまりブチ上がってしまったのである。

 

『上海ハニー』の歌詞通り雲一つない青空。照りつける日差し。30℃を超え、体には少々堪える気候。爆音。何千人もの叫び声と汗と熱気。ORANGE RANGEは間違いなく、2016年の夏を彩っていた。

オレンジレンジが好き」と言うのは、なんか恥ずかしい。いや、まあ好きだし、みんな好きなんだけど、特別に好きとか、一番好きという感じではない。寿司で言うマグロとかサーモンとかじゃなくて、玉子とか、納豆巻きとか、そのあたりがこう、5皿くらい食べてちょっと満足感を抱いた時間帯に回ってきたら手に取ってしまう感覚に近い。まあただ、そこそこ満腹感がある6皿目でも取ってしまうくらいなので、HIROKIがちょっとMCを挟んだ後、「刺激がほしけりゃバカになんないといけないっすよね~~!!」とか大声で煽ろうもんなら、また血流レベルで彼らに身体を侵略され、『ロコローション』のズンチャチャ、ズチャッ×2に合わせてぐねぐねと上半身を動かし、挙句の果てには曲の中で歌われるホンモノの「刺激がほしけりゃバカニナレ Oh Oh Oh」にギエエエエェェェェェとバカになってしまうのである。

 

私たち(厚かましくも、90年~95年くらい生まれを総称して私たちと表現している)が、普段はあえて明確に「好き」と公言しないオレンジレンジが爆音で流れ出した瞬間、身体を乗っ取られブチ上がってしまうのには理由がある。しごく当然だが、彼らは私たちと青春を共にした。小学校低学年の、兄や姉を持つ子たちを筆頭にJpopを聴き始める時期に、彼らは『上海ハニー』を歌い、『以心電信』を歌っていた。小学校高学年から中学生くらいの、部活以外ではエンタメを楽しみ友人と語ることだけが人生の目的みたいな時期に、彼らは『ロコローション』を歌い、『お願い!セニョリータ』を歌っていた。高校に通い悩みを持ち始める多感な時期にも、彼らは『イケナイ太陽』で私たちを支えてくれた。

私自身、小学3年生だか4年生だかの頃学校から家に帰ったら、母が何も言わず買ってきてくれていた彼らのセカンドアルバム『musiQ』が机に置いてあるのを発見し、発狂したことは約15年を経ても鮮明に覚えている。あれが人生で初めて、私物となった「アーティストのアルバム」だったのである。

 

ORANGE RANGEの皆さんは、きっとそんな自分たちの立ち位置をよく理解されているのだと思う。彼らのことを夏以外見ることがあまりない。いやもしかしたら冬も見ているのかもしれないが、彼らの周りだけ夏と化しているので記憶にないだけかもしれない。そして、2002年~2008年位の間に彼らが歌っていた音楽以外を耳にする機会は殆どない。(いや多分新曲はあるんだと思うんだけど、そんなに聴く機会がない。申し訳ないんだけど一般消費者なので許してもらえると思っている。)

そう、もはや彼らは、「ヒットした懐メロを永遠に歌い続ける人たち」と化したのである。彼らが現れればそこは2005年(プラマイ3年)、彼らが現れればそこは真夏。それでいいのだ。それでいいし、それが最高なのだ。私たちはそれで毎夏ブチ上がることができるし、彼らはそれで食っていける。というか、多分もはや歌わなくても食っていけるんだろうけど、それで楽しく生きていくことができる。

 

で、冒頭の「オレンジレンジはもはやTUBE」である。永遠に『あー夏休み』を歌い続け、その場を一瞬にして90年の夏に変えつづけている方たち。TUBEは2020年の夏も『あー夏休み』を歌うし、ORANGE RANGEは2030年の夏も『ロコローション』を歌うのだ。

 

私たちはカラオケでTUBEを歌う。歌わないとしても、楽しそうに「あ~んなーつぅやすみぃ~」と叫ぶ人生の先輩を前に、一緒に体を動かす(血流レベルで乗っ取られてもいないのに)。そして、先輩方が謳歌したであろう90年の夏をともに楽しむ(生まれてないけど)。

カラオケでオレンジレンジを歌う2000年代生まれに出会ったとき、私はきっとどんなに抗えど、LIVE DAMから流れてくる音源に血流レベルで身体を乗っ取られ、浜で社交ダンスし、刺激がほしけりゃバカニナッてしまうのである。2000年代生まれの身体は乗っ取られてもいないし、彼らは上海ハニーの年に生まれていないかもしれないのに。

 

私たちがTUBEを歌い、合わせて踊る人生の先輩を見る目と同じ目で、私たちは彼らに見つめられるのである。私たちはもう、そういうところまで来ている。彼らが出現した途端、私たちは、自分らがそういうところまで来ていることを知る。

 

カラオケでオレンジレンジを歌う優秀な2000年代生まれには、だから出会いたくない。

竹内涼真のリアル感がエロい

陸王竹内涼真がいい。

 

何がいいかと言うと、美しいルックスであることはまず間違いないのだけど、それ以上に、美しいルックスをお持ちであるにも関わらず、それには満足せず努力した痕跡のある演技をしており、大御所たちの重厚感の中でも劣らずに輝いているところがいい。

 

同様の良さで言うと山崎賢人もかなりいいのだけど、竹内涼真の「よさ」にはかなわない。その理由は竹内涼真のほうがルックスがいいことが8割8分くらい占めているんだけど、もう少し真剣に考えてみると、竹内涼真の「リアル感」にあるのではないかと感じる。

 

OLとして、人気俳優の誰が同じオフィスにいたら興奮するかを全力で考えたときに、

最終的にたどり着く結果は「竹内涼真」である。

まず最初に候補に上がるのは小栗旬

次の有力候補は高橋一生

 

あとは綾野剛が「もう来なくていいよ。…なーんてね。怖かった?はは」とかからかってくるちょっと怖い取引先の担当者だったりとか、それにきゅんとしている私を見て後輩の菅田将暉が頬を膨らまして無理やり飲みにつれて行って勝手にべろべろになったりとかしてくれていればいいんだけど、

これだけのオールスターをもってしても、竹内涼真の会社にいてほしさに勝つことができない。

 

その理由が、たぶん「リアル感」だ。

小栗旬とか菅田将暉は、もうなんか熱がすごい。むんむんとオーラを放ちまくってきている。「オレ!!才能人!!!」的な熱と圧がもうすごい。

高橋一生綾野剛は、非日常感がすごい。彼らが目の前に立っただけで、半径10mくらいはもはや高橋一生の世界。綾野剛の世界になってしまう。「いや、これ現実じゃないから、夢だから」みたいな微笑みを湛えてそこにたたずんでいる感じがある。

竹内涼真は、いい意味でそのどちらもないのだ。

熱とか圧とか、ない。とにかく淡々としている。陸王の「僕はただ、いいシューズを履きたいだけです」のイメージである。いや本当の竹内涼真がどんな人なのかはよく知らないが少なくともそこに熱とか圧とか、才能とか熱意の押し売り的な印象はなかった。

非日常感も特にない。竹内涼真がそこにいても、多分半径1mくらいしか竹内涼真の世界にならない。微笑みとともにたたずみながらオーラをまとったり、魔方陣的な何かを作ったりはしていない。

 

だから、竹内涼真は、会社にいてほしいイケメンナンバー1なのである。

 

なんか多分、竹内涼真がサラリーマンだったら、取引先ともそれなりに上手くやるし、上司とも派遣のお姉さんとかともそれなりに上手くやって社内評判めちゃくちゃいいのに、「仕事と人生は別で考えてますから」みたいなクールな感じのザ・平成のサラリーマンとなるのだ。

このエレベーター乗るときの「あっ」みたいな感じのリアル感、小栗旬にも高橋一生にも綾野剛にも菅田将暉にもないのだ。いやみなさん実力派なのでそういう役をやってくださいとなったらまあものすごく上手にやるのだろうけど。

でもね一番、この日常的なワンシーンがハマるのが、竹内涼真なんだ。

なんというか、これ以上に表現できないのだけど、彼の現実感がエロい。

現実的だからものすごくエロいのだ。

 

そういうリアル感が、竹内涼真のどことない「よさ」をかたちづくっているのではないか、というと聞こえはいいのだけど、単に竹内涼真で毎週日曜興奮しています、という、それだけに終始する話だった。ありがとう竹内涼真

「リーダーになっちゃう人」と会社の飲み会の話

大学時代、時流に乗ってとりあえずインターン行かなきゃ、という感じで某有名企業のインターンに参加した。グループを組んで新規事業開発についてプレゼンし全員で投票してランク付けする、という、特段変わった点もないよくあるインターンの形式だったのだが、私はそのインターンとその企業のことを、5年たった今でも鮮明に覚えている。

「きみ、なんかいつもリーダーとかなっちゃうタイプの人でしょ」

インターン最終日の、人事担当者との面接の際、かけられた言葉が想像とあまりにも違っていたので、耳を疑った。

こういうグループワーク的ななにかのときは大体、グループを引っ張ってくれてありがとうだとか、主体性があっていいねだとか、資料作りやプレゼンがうまいねとか、今後もリーダーシップを発揮していってねだとか、なんかそんな感じのふわっとした褒め言葉をいただき、おいそれと承認欲求を満たして終わっていた。

で、今回もそうだと思っていた。

なぜって、「私は学生にしては驚異的な能力を発揮していた」(少なくともその時はそう思っていた)から。5日間のインターンで私のグループは3日目までなかなか進まず、ピンチに陥っていたが、3日目にテーマを私が発案し、資料の骨子を高速で作り、情報収集や詳細な資料の作成はページごとにメンバーに割振りし、発表はグループ内のほかのメンバーの「きみが一人でやったほうがいい」という意見により私が一人でやることになったため一人で全部プレゼンし、ほとんど満場一致で優勝した。スタッフの方たちにも、「あんなピンチに陥っていたグループが優勝するなんて、でも内容は神がかっていた」と言われた。

いや驚異的だろ。優秀だろ。最優秀主演女優賞だろもうこれ。

 

でも主演女優賞はもらえなかった。むしろボロクソだった。

そのとき私のグループの担当として面倒を見てくれていた人事のKさんは、主体性とかプレゼンうまいとかどうとかこうとか聞きなれた、ぬるっとした褒め言葉を待っていた私の耳に先程の言葉を放り込んだ。

「きみ、なんかいつもリーダーとかなっちゃうタイプの人でしょ」

…はい、としか答えられない。これはむしろ褒められているのか?と疑心暗鬼になる。でもKさんの目は全然笑っていなかった。

「リーダーとかなっちゃうタイプの人って、だいたい決まってんだよね。なんかいつも何だかんだでリーダーになっちゃう。それ、自分でもわかってるでしょ?」

そうですね、なんかいつもなっちゃいますね。ふわっと答える私に、Kさんは続けた。

「自分でわかってんだから、最初からそのつもりでやらなきゃ。リーダーになるんだったら、メンバーのことをよくわかって、どう活かすか考えて、取り込んでいかなきゃ。遅いよ。全然遅い。○○とか△△とか、最後の方キャラ出てたじゃん。それ1日目で掴んできみが引き出してたら、出来上がり全然違ったと思うよ。後半一人でがんばって、最後の最後でメンバーの良さが向こうから出てきてなんとかなっただけじゃん」

 

3日目までうまいこと進んでいなかったのは、メンバーが今ひとつ打ち解けられていなかったことと、あるメンバーと私で意見の対立が起こっていたからだった。

結局私が論理で強引にねじ伏せ、最終的にそれが優勝したわけなんだけれども、(まあ今考えると至極当たり前なんだけど)そんな私は全然優秀ではない。

「なんだかんだで最後は自分がリーダーになっちゃう」

わかってるんだから、最初からそのつもりで。全員が気持ちよく納得できる解を探しに行かなければならないのである。

こうやって文章にしていると、社会人になったら本当に至極当たり前のことなんだけれど。「リーダーになっちゃわない人」からのぬるっとした褒め言葉しかもらってこなかった若干21歳くらいの私にとっては「リーダーになっちゃう人」側からの意見はあまりに新しく、衝撃的だった。

(もしかすると、「リーダーになっちゃう人」と認めることはその時期恥ずかしいことだと思っていたのかもしれない。自意識が肥大化している。)

リーダーたることはもはや前提である。さすればどのようにして理想的なリーダーたるべきか、あるいは理想的なチームを作るか。自覚を持って、どんなチームに所属してもそれを熟考することが義務であるわけだ。何回も言うけど、当たり前なんだけど。初めてそれを教えてくれたKさんのことは、多分文字通り死ぬまで忘れない。

 

 

で。忘年会シーズンである。

 

もうね、私は本当にやりたくない。会社の飲み会の幹事とか、本当にやりたくない。

でもやっちゃうのである。

「当日のタイムスケジュールは?」「お店に連絡した?」「宴会芸のオファーは済んだの?」「会議開いて?」とか。やっちゃうのである。本当にやりたくない。

でも、多分、最終的に幹事団のリーダーになっちゃうのである。何がどう転んだって、なっちゃうのである。

だから、今のうちから幹事メンバーのキャラと得意技を把握して、上手いこと取り込んでいかなきゃならないのである。

 

幹事団のリーダーになることは前提。もはや前提。

さすればどのようにして理想的な忘年会を作るか。それを、諦念とともに最初から自分事として、熟考せねばならないのである。

がんばる。