19年10月15日のつれづれ

 


うん万円の3000字より0円の1000字をいま書き始めていることが、怠惰に他ならないことはわたしがだれよりも知っている。

 

憧れの出版社の憧れのメディアの著名な編集者に見つけられたことは光栄そのものだし今もここにわざわざ書くくらいには嬉しいのに、その3000字を書き始めるすこしの億劫さで、半年もろくに更新してなかったブログの新規作成画面を開く自分に若干の自己嫌悪を抱いたりする。そんな自己嫌悪も湯船に浸かったら代謝がよくなって汗と鼻水といっしょに流れていく。

 

文章からの逃避で文章を書く。いいじゃない、物書きよろしい。まだ何も成し遂げていないけど。

 

今日は会社でおじさんに、ヘアアイロンでやけどしたおでこの傷と塗り薬を茶化され「汗っかきかあぶら症かと思ったよ」とか言われて、「やだ~傷つく~そんなこと言ったら次の組合員アンケートで書いちゃいますからねっ」とか返して、でも別に傷ついてもいないしアンケートにも書かないし、特に怒ってもいない。

自分の醜さを笑いに変えられることをアイデンティティととらえるポジティブな感情を自ら否定し、ハラスメントをされたらきちんと真の感情で怒る、みたいなことを最近やってたけど、いまはもはやなんでもよくなってきた。無感情。(だけど数日たったらまたすごい勢いで怒ってたりするから大丈夫だよ、とか夫はいつも私に言う)

 

嬉しいことの嬉しさもかなしいことのかなしさも、19歳のころに比べたら5分の1くらいしか感じなくなった。たぶん20代の人生に慣れてきた。30代になったりしたらまた慣れない人生にうろたえたりするんだろうな。

変人になれないまま死ぬこともなんとなくわかった。変人になれないのに、たくさんの人がつくりだす空気のゆるやかな流れにはじょうずに乗れない。変人になれないのならせめて、空気のゆるやかな流れに乗れる人にしてほしかった。疑念を抱いたりしない生き物にしてほしかった。ねえ、わたしたちの創造主よ。

 

どうでもいいからイケメンにナンパされたいし、会社のいくつか上のまじめでかっこいい先輩とみんなには秘密の関係になったりしたい。こんなこと言うと何人かが「夫さんがかわいそう、きっと傷ついているよ」とか言ったりするんだけど、かわいそうなのか。と思って「傷ついているの?」と夫に聞いたら「なめられたもんだな」と笑っていた。人と人との関係性はその関係性の外にいる人が規定するものではない。

「なめられたもんだな」と笑うことだって無理してるんだよ。ほんとうは傷ついてるんだよ。そんな想像力もないの?という何人かもいたりする。夫の無理とか傷つきをどうしてその人がきめるのかよくわからない。だからさ人と人との関係性はその関係性の外にいる人が規定するものではないんだよ。

 

もてたい、沖縄行きたい、服ほしい、髪切りたい、ネイルしたい、

そんなんわたしたちのため息じゃんかねえと友達と言ったりしていた、わたしたちの吐いた二酸化炭素を必死でかき集めて地球温暖化について怒ったりしないでほしい。おれたちはおれたちでSDGs実践してるからさ、な。

 

うん万円の体系だった3000字を書くのが少しだけいやで、0円の体系だたない1300字を小さなダストボックスに投げ入れた。

まあ、それでもなんとなく体系だったり好きな言葉遣いしてしまったりしてるのをわたしはわかってるよ。変人じゃないから。わたしたちの主、イエズス・キリストによって。アーメン。