「好きな○○」に何と答えるのがスマートなのか問題
「マンガで何が好き?」と訊ねられ、『左ききのエレン』と答えて得をしたためしがない。
「映画で何が好き?」と問われ、『愛のむきだし』と言って得をしたためしもない。
「本、何が好き?」と聞かれ、『ブスの本懐』と返しても損したことしかない。
社会人やってると、初対面~2,3回目くらいの人、しかも共通点が殆どない人と話す機会は多い。そういうときによく出るのが、「○○で何が好き?」という話題である。
この質問、本当によくない。
こういう質問が出てくる場合って結構お互いコミュニケーションに困っているときで、聞く方はその場の話を広げるためにその質問をしているだけであって相手が何が好きかに興味などない。
答えるほうも答えるほうで相手が興味ないこともわかっているし、だとしたら相手の好みに合わせて答えてあげたいけど相手がその○○でどんなジャンルが好きなのか知らないので何系で答えていいのかわからない。しかも相手の好きなジャンルにたまたまハマってしまったときに、相手の方がめっちゃ詳しかったりするとなんかちょっと気まずくなるのでドンピシャは避けたい。
このように非常に返し方に迷うので、エイヤッと本当に好きなものを言うとそれが思ったよりマイナーで「アッ…そうなんだ~~」と会話が終了するときも多い。この場合聞いた方も気まずい。私の場合、冒頭に挙げたような「どマイナーではないけど社会一般的にストレートではない」趣味が多いのでなおさらつらい。
このように、聞く方にとっても答えるほうにとってもよくない点しかないこの質問だが、まあ確かに初対面ないし会って2,3回目の人の間で沈黙を作らないための便利なバントヒットではある。
その上私はもう社会人である。今年アラサーである。こんなどこぞのコミュ障こじらせ大学生みたいなこと言ってないでスマートに返答しスマートに話を広げていかなければならないのである。
そこで、「○○で何が好き?」と聞かれたとき、最も相手を困らせず、その後の話が最も広がり、また私が変な子だと思われないためのスマートな返答を一生懸命考えてみる。
・マンガで何が好き?に対する多分スマートな回答
間違っても「左ききのエレン」とか「アラサーちゃん」とか言っちゃだめだし(アッそうなんだ……となる)、「進撃の巨人」とか「ワンピース」とか言っちゃだめである。(アッこの人返答適当だな……と思われる)
ということで、即答!スラムダンク(読んだことない)。
「スラダン」と答えると大体の人が「いいよね~~」と返してくれるので、「ですよね、『諦めたらそこで試合終了だ』!…つってね、監督ね」とか言っていれば間が持ちそうな気がする。「女の子的には誰がカッコいいと思うの?」的なことを聞かれたら「流川」と言っておけばいいと思う。ただこの前「流川」と言ったら「お前単純なヤツだな~」と至極バカにされた。次のタイミングで「三井」と言ったら「おっ!いい趣味してるね~」と言われたので今後必ず「三井」と言うことにする。
・映画で何が好き?に対する多分スマートな回答
もうこの先2か月間絶対に「カメラを止めるな」とは言えない、むしろ絶対に言ってはならない。
好きとか絶対ないだろ!心から好きなわけないだろ!!みんな好きって言ってるし好きって言っとけばおしゃれっぽいし好きって言ってるだけだろ!!!と私が自分で自分に対して思ってしまうのでつらくて言えない。「カメラを止めるな?あれ見ましたけどうん、やっぱ面白かったですね~」くらいにとどめておいた方がいい。
ここはやっぱり「スターウォーズ」なんだろうか(観たことない)。
「スターウォーズ」と答えても絶対大体の人が「いいよね~」と返してくれるので、「ですよね~!特にあのルークスカイウォーカーがハンソロにぶたれて親父にもぶたれたことないのにってキレるところとか!」と言っておけば良さそう。「あっ!親父にもぶたれたことなかったのに結局親父と戦うっていうね笑、皮肉ですよね笑」みたいなジョークはありだろうか。
・本、何が好き?に対する多分スマートな回答
「本」が、一番難しい。間違っても「ブスの本懐」とか言っちゃだめだし、間違っても江戸川乱歩とか言っちゃだめである。「お、おう…」となって終わってしまう。
やっぱり東野圭吾なのかな~~。そうなのかな~~。湊かなえって言ったほうがいいのかな~~そうなのかな~~。
石田衣良や朝井リョウは本当に好きだし割と無難な位置づけなんだけれど、35歳以上の方とお話しするときにあまり効果を発揮しない。「あ~…えっと、あ、この前直木賞とった若い人?」みたいになっちゃう。
世代的に綿矢りさはいいかもしれない。「同世代で、女性で、すっごくリアルで繊細な文章を書くんです。あ~~本当これこれ~こう思ってる~みたいな!!」
ただそれに対して「どんなところが?」と聞かれると答えに詰まる可能性がある。「いや~しっかりしなきゃと思ってる真面目な女が甘え上手なダメ女に心底嫉妬して怒り狂う点とかですかね!」とか言えない。
やっぱり東野圭吾かな~~。あ、池井戸潤もいいかもしれない。ドラマしか見てないけど。
本は本当に好きなので、なかなか難しい。
多分東野圭吾だと思う。
ちなみにかく言う私は半年ほど前に飲み会で
「あ、マンガ好きなの?何が好き~?」
「アイアムアヒーローですね!」
「へ~!どんなの?」
「おっさんがゾンビをひたすら倒して成長していくマンガです!おっさんの成長がもうすごくt」
「グロそう~!」
「あっすごいグロいです!」
「えっじゃあ映画もグロいの好きなの~?何が好き?」
「セッションですかね?」
「あ、なんかドラムのやつ?」
「そうです!スパルタ講師の…」
「へ~あれ面白いんだ~」
「美しいものへの執着心みたいな、絶対私じゃたどり着けない境地に主人公2人がいってて、いやもうほんとすごいなっt」
「難しそう!」
「いやそんな難しくはn」
「難しそうだから本とかも結構読むんじゃない?」
「あ、本好きですね~」
「へ~一番好きなの何?」
「アッそうなんだ~…文学少女だね~」
などという会話を繰り広げ、その後約30秒間にわたる見事な沈黙を生み出した。
コミュニケーションは日々鍛錬である。
女性にとっての少女マンガは男性にとってのAVだって何回言ったらわかるんだよ(センセイ君主を観た話)
『センセイ君主』を観た。
センセイ君主で先生役を演じている竹内涼真がイケメン界においてはもはや神の領域に達している、というよりもはや神など超越している、彼は死んでも3日後と言わず翌日には復活する、などということは私なんかが言わなくても周知の事実なのでここまでにしておく。として、
本題に入る前にセンセイ君主の感想を述べるとすると、特に衝撃だったのは先生の幼き日の初恋を象徴する歌としてJUDY AND MARYの「Over Drive」が取り上げられていたことだった。竹内涼真は私(きえんご先輩)の一学年下にあたる93年生まれであり、私はジュディマリ世代ではない。つまり、設定としては若干無理があるにも関わらず、先生の思い出の曲としてジュディマリをねじ込んだということである。
唐突だが、ドラえもんやクレヨンしんちゃんの映画が根強く人気なのは「一緒に見に来たお母さんお父さんにとっても楽しめるよう、示唆深いストーリーにしてあるから」というのはよく聞く話である。
お分かりいただけただろうか……
ジュディマリ世代はもうお母さんなんだなッッッ!!!!!!!!!!
小中学生の娘が「センセイ君主見たいよオオオォォォ」とダダをこねたために映画に連れて行かなければならなくなったお母さんが一緒に観ても途中退席せず一緒に涙するためにねじ込まれた親対象の挿入歌なんだなアアアッッッ!
そういえばセンセイ君主でめっっっっっっっっちゃ聞いたことある歌が合唱曲になってたんだけど調べてみたらOverdriveだった😃余裕で生まれてない😃
— 結月ちうり (@mugi_no_ko) August 8, 2018
のになんで聞いたことあるんだろうと思ったらマッマがそのときティーンエイジャーで好きだったから私が小さい頃聞かされてたからでした😃😃
↑
(全然知らん人のツイート)
怖くない?怖いよ?我々のお姉ちゃんお兄ちゃん世代の人とかよく聴いてたよね?
我々のお姉ちゃんお兄ちゃん世代の人、もう半子ども向け映画の製作者から気ィ使われる年代になってるよ…私まだラブコメ映画自分の意思で観に行けると思ってたよ……
と、ここまでは実は前段である。
上記の魂の叫びを知人男性に全力で放ったところ、
「てか待って、娘、少女マンガ映画に連れて行く?」とのお言葉。
よくよく聞いてみると、彼の主張はこうだった。
「先生と生徒の恋愛とか、小さい娘に見せて本当にあると思っちゃったらやばくない?」
はあああああああ?????????
頭おかしいんじゃないですか??????????
こちとらこんなのはファンタジーだと割り切って、竹内涼真の頭ぽんぽんを疑似体験できるディズニーランドのアトラクションとして観に行ってるんですけど??????????
「いや、そりゃアンタはそうだけど、子どもにはわからないんじゃ」
おたくは父親として中学生男子がAV見ようとしてるの止めますか??????????
「いやあこの年頃でこういうの見たくなるのは健康優良児だよ」とか、男の人、よく言ってません?????いや、わたしももし子どもを産んでうるせえ中学生男子の親とかになって彼のスマホが煌々とAVの例えば痴漢モノを映し出しているのを見つけてしまったとしてもワキ汗かきながらそっとスマホ画面を伏せるよ。あ~よかった順調に成長している、と思うよ。息子だって本物のバカじゃないかぎり痴漢は犯罪であってこの痴漢モノのスマホ画面上で途中から心許しちゃってる相手の女の子がファンタジーであるということくらいわかるよ。いや本物のバカだったら困るけど。現実的にまっとうな教育が必要になるんだけど。息子が痴漢は犯罪だとわかってどうして娘が竹内涼真が幻想だとわからないんだよ。あァ!?
年頃の女の子が少女マンガ映画を観るのは男子がAV観るのと一緒なんだよ!!!
小学生女子にも人並みのキュンキュンを味わわせてやれよ!!!
言っとくけど女の子はおマセさんなので、先生である竹内涼真の頭ぽんぽんなんてファンタジーだということくらい一桁年齢のときからしっかり理解してるよ。多分だけど。その上で、彼女たちだってアトラクションとして観に行くわけです。世のお父さんたち、安心して娘を少女マンガ映画に送り出してください。世のお母さんたち、バカな息子の痴漢モノは一緒に許してあげような。(昨日「子どもは欲しくない」って言ったばっかりだけど)
そういうわけで、『センセイ君主』はディズニーシーのトイストーリーマニアと一、二を争う日本の最高級エンターテインメントでした。ありがとう竹内涼真。これからも日本女性に夢を与え続けてください。
「子どもは早い方がいいよ」ってアドバイスするな(あなた基準の善意は、時に刃物になる)
結婚がらみの話が出た時に、
二言目に誰かが言う「料理できるの?頑張って練習しなきゃねえ」
三言目に誰かが言う「子どもは早い方がいいよ~。」
結婚したら女が料理を作って毎日家にご飯をそろえて待っていなければならない、と、誰が決めた?
子どもは女性全員が産むことができて、女性全員が産みたいものだと、どのアンケートで判明した?
それらの疑問を喉の奥でかみ殺して、
「やばい~料理なんて目玉焼きしかできないです~!練習しなきゃですね~」と焦ってみせる。
「ですよね~、年取ってから産むと仕事で大事な時期に産休とかなっちゃいますもんね~」と悩んでみせる。
私が結婚や出産についてどう思っているかなんて、彼らは気にしていないし、分かってもらうつもりもないから。
これは私の話だけれど、
例えば結婚した時に、私一人で料理を作って貞淑におうちで待っててお帰りなさいダーリンなんてそもそもできると思っていないし、できないことは交際相手にも伝えている。彼は度が過ぎる善人なので「わが家は仕事優先だからね」と言ってくれる。
例えば結婚した時に、子どもをすぐに持ちたいとは思っていない。時間とお金はまず自分に使いたいし、女性だけれどそもそも子供ができる体なのかどうかも調べていないのでわからない。ゆくゆく欲しいと思う時も訪れるのかもしれないけれど、その時のことを今は考えていない。
だからと言って、専業主婦になって仕事で疲れて帰ってきた夫をおいしい料理でねぎらってあげたい、という女性の夢を否定するつもりも毛頭ない。そこに「この人が好きで、役に立ちたい」とか「誰かを喜ばせてあげたい」とか「家事のプロになりたい」とか、明確な意思があるなら、素晴らしい夢だと思う。
子どもを持ってあたたかい家庭を築いている大人たちのことは心から尊敬するし、家族は素敵なものだなと思う事も沢山ある。
単に、それらが「私の夢」ではないだけで。
えー、でも、やっぱり料理できて笑顔で振る舞ってあげられる女性って、素敵じゃん。
えー、奥さんには甘えたいなあ。
えー、子どもは可愛いし、いたほうがいいよ。誰かのために生きる幸せがわかるよ。
えー、お金と時間を自分に使いたいって、そんな考え方するなら子ども作らない方がいいな。
この世界には、「あなた」がいて、「私」がいる。あなたの常識は、もちろん私の常識ではないし、世間の常識でもない。一般人が一般論を語るな。「私は」で語れ。
あなたが、料理できる女性が、甘えさせてくれる女性が素敵だと思うなら、その素敵な女性を探して勝手に結婚してくれ。
あなたが、誰かのために生きる幸せを味わいたいなら、勝手に味わっていてくれ。
あなたが、「そんな考え方するなら子ども作らない方がいい」と言おうが言うまいが、私や私のパートナーが子どもを作れるかどうかも、私が子どもを作りたいかどうかも、変わらない。
これだけ怒っているけれど、こうした"アドバイス"をくれる方たちは、完全なる善意をもって発言してくれている。きっと彼らは、女性はこういう方が素敵だと思うから、そうなったほうがいいよとアドバイスしてくれている。子どもは遅いと苦労するから、早い方がいいよと言ってくれている。
その善意には感謝するけれど、小さじ一杯分だけでいいから、わずかの想像力を持ってほしい。ここにいるのは名前のない二体ののっぺらぼうではない。あなた独自の意見を持ったあなたと、私独自の意見と体を持った私だけである。
あなた基準の善意が、もしかすると、誰かを傷つけているかもしれない。私基準の善意が、もしかすると、あなたを傷つけるかもしれない。
世の中は私たちが思っているよりずっと広くて、奥行きがあって、精細なものだから、
毎日毎秒、そう思って生きたい。
2週間Tik Tokを見続けて得た2000年代生まれに関する知見
TikTokついていけない(笑)自分の踊ってる動画撮って何が楽しいの(笑)とか言ってる90年代生まれたち、クッソダサいぞ。
時代はYoutuberでもInstagrammerでもなくTik Tokerらしいぞ。
一時期、「Youtubeを観ていると出てくるウザい広告」として話題になったTik Tokだが、今やApp Storeの無料ダウンロードランキングで2位、一日のアクティブユーザー数は6,000万人を超え、1日のビュー数は10億を超えるという。
「カラオケでオレンジレンジを歌う2000年代生まれに出会いたくない」とか言っていたが、もうそんなこと言っている場合ではない。
ブルーノマーズに合わせて手のひらに友達のあごを乗せていく彼らに、ラッツ&スターの「め組のひと」にノリながらピースサインをする加工された自撮り動画を投稿する彼らに、我々はきちんと向き合わなければならない。
不必要な義務感にかられてTik Tokをダウンロードし、彼らは何を目的に自撮り動画を投稿しているのかを理解するべく見学し始めた。
ーー結果、気づくと2週間、朝から晩まで暇なときは永遠に見続けていた。
ハマってしまった。圧倒的に面白い。
理解しなければならないとか言っている場合ではない。普通に面白い。
ということで、下記になぜTik Tokが面白いか/あるいはTik Tokを通して勉強になった点をざっくりまとめようと思う。
①「こんなに美しい・カワイイのに全力で変顔できる私」という自意識
「こんなに美しい・カワイイ私」という自意識(アピール)はどうやらもはや古いらしい。そのあたりのアピールは近頃みんなインスタでできているので、Tik Tokではさらに一段上のアピールが必要になってくる。そこで、かわいらしいモデルなりインスタグラマーが実施しているのが、「こんなにカワイイのに全力で変顔できるアピール」である。
テンポのいい曲に合わせて様々に変顔を披露する美女。白目をむいたり、しゃくれたり、鼻を膨らませたり…かわいいのに気取ったりぶりっこせずに変顔する気さくで親しみやすい私、という好感度抜群である。例えば、写真はハーフモデルのErikaちゃん。実際、コメント欄には「こんなに全力で変顔してるとめちゃくちゃ好感度上がるww」という素直なコメントが目立つ。時代は可愛いインスタグラマーを経て変顔できるTik Tokerに移っているらしい。まるで時代が歌って踊れる少年隊から歌って踊ってコントができるSMAPに移行しているようだ。
②「加工したらかわいいのに~」というコメント。加工はエチケット
あまりかわいらしいとは言えない女性の動画に目立ったのが、「加工したらかわいいのに~」あるいは、「化粧して加工したら普通にかわいいと思うよ!」という善意のコメントたち。
もはや「化粧したらかわいいのに」ではない。加工することは化粧と同じかそれ以上のエチケットなのである。
恐らく、インスタかTik Tok上でのコミュニケーションの優先順位が高い彼らにとっては、鏡で見る顏ではなく、化粧し、小顔効果、フィルターを追加したインカメで確認する顔が『自分の顔』なのである。なぜなら、教室ではなくインスタとTik Tokがメインフィールドだから。
(私個人としてはこの考え方に賛成するつもりも批判するつもりもない)
③最近のぶり顔は「アヒル口」でも「カッパ口」でもなく下あごを出したア顔かイ顔
簡潔に説明すると、画像でアヒル口をしていた人がアヒル口のまま話す動画を取ると、自然と下あごと下の歯列が出る。結果、下あごが出たままするア顔かイ顔が新しいぶりっ子顔になる。
写真をみてもらったほうがわかりやすいと思うので、人気Tik Tokerであるゆなちゃんとひなたちゃんを参考にさせていただく。完璧なるア顔とイ顔。かわいいの圧。
④かわいらしさのアピール以外にも、休み時間のお供、メディアとしての使われ方
自撮りダンス動画としての使われ方だけでなく、Tik Tokはそこら辺の野球少年や男子高校生が休み時間に楽しく遊ぶのに使われたり、「道でこんなの見つけた」などというバズネタを伝えるメディアとしても普通に使われている。若い世代が流行ネタを仕入れるためのプラットフォームとしても使われているよう。
Tik Tokではできるだけ短時間の動画で、BGMを使用することが推奨されているが、なんらかのBGMが入ると、また長さも一瞬で終わると、動画自体の面白さがそこそこでもなんとなくそれなりのコンテンツっぽくなる。単に動画を投稿するだけのメディアよりも爆発的に流行しているのは、それが理由な気もしないでもない。
Tik Tokは小学生ユーザーもかなり多そうなので、こうしたSNSには2010年代生まれも出現してきている。2000年代生まれを理解しようとして満足しているようでは自分もまだまだだと思う。今後とも向上心を忘れずに、彼らの投稿からは自意識についてさらに勉強させていただきたい。
「私、ドライだから」なんて、絶対に言いたくない
結論から言うと、世の中で一番かっこ悪い人は、「僕/私ドライだから」というウェットな人だと思っている。
でこういう人、意外と結構いる。
「自分、情とかあんまりなくて、自分にメリットのある人としか付き合わないんだよね~」と言いながら、自分にとってメリットのないはずの何も持たない年下たちに説教を垂れるバッキバキに承認欲求の塊なお兄さんお姉さんとか。
「自分、付き合った人とそんなに連絡とか取りたがらないタイプで、いつもすごい束縛とか嫉妬とかされちゃって困るんだよね~」と言いながら、自分の方を向かない相手には狂気じみたアピール(という名のストーキング)をする坊ちゃん嬢ちゃんとか。
「あー、前に付き合ってた女?飽きたから捨てたわーwwもう連絡返してない。俺そういうとこドライだから」と言っていた先輩は、飽きたから捨てた連絡返してない女の話を2,3年にわたり500回くらいしていた。飽きたから捨てた連絡返してない女の存在は自分の尊厳と自己肯定感を保つのにそんなに必要か。そうなのか。
少し前に、「私、ドライだから」みたいなことを公の場で言ってド炎上していた人がいる。
医学部に行く女子の合格点が違うなんて差別だ!とか色々書かれていますが、そんなのは私が医学部受験していた頃から赤本にも書いてある有名な事実。予備校のバイトだってみんな知っている。
— 菅谷明子@那覇市民 (@9moji_hantai) 2018年8月2日
その程度の壁越えるしたたかでしなやかな女性でないと、医者なんてやれません。ご心配なく(笑)
東京医科大学の、入試における女性一律減点が問題になり、人々が口々に性差別を批判する中で話題になったこのツイート。産業医であり全国医師ユニオン設立メンバーであるという彼女の発言は、一方では支持され、一方では批判された。
"加害者の罪を許し受け入れることを美徳としなければ、自分が耐えてきた苦痛が無意味になってしまう。だから差別に甘んじて迎合することがカッコイイ姿であると豪語するのは自由。だが、同じ考え方を他の被害者にも押し付けるのは、自身も加害者になるのと同じだ"というまっとうな批判が目立った。
わたし(きえんご先輩)自身は自分の女性としての社会での立ち振る舞いを省みたうえで、菅谷さんの意見の内容自体に対しては明確な是非を唱えないことにしている。(詳細は割愛するけれども女性としてまあまあ虐げられてきたしまあまあそれに迎合してきたクチなので、いつもこの辺の話題からは一定の距離を置いている)
その上で唯一気になったのが、菅谷さんの語り口である。140字という限られた情報のなかで、ひしひしと伝わってくる「私、ドライなので」感。
これは、すごく危険。誰にとって、かというと、本人にとって。
私は菅谷さんの親戚でも友達でも知り合いでもないので、この人のことは正直クッソどうでもいいんだけど、ある一人の人がこのような語り方をするのはその人にとってとても危険だし、かわいそうだと思った。
「自分はドライだ」と表現することによって、人は自分が社会構造や人間関係に対してウェットに振る舞うことを未然に否定している。つまり、自分は構造や関係性に対して傷ついたり、怒ったり、しんどくなったりしない、と明言しているわけである。
それによって、本人は実際に根っこの部分で傷ついたり、怒ったり、しんどくなったときに、それらの感情に蓋をしてひた隠しにしなければならなくなる。なんでかって、それらが出てきてしまったら、カッコ悪いし。自分のアイデンティティが揺らいでしまうから。
「ドライに振る舞う」ことについて語っている以上、そう振る舞わずに境遇に正面から向き合って傷ついた過去がある可能性が高い。正面から向き合って、戦おうとして、そして傷ついてしまったから、ドライに振る舞わざるを得なくなった。
これは、どの「私/僕ドライ」論者にも当てはまることだと思う。彼/彼女は、かつては愛情を正面から欲してみた。自分を正面から愛そうとしてみた。でも、かなわなかった。だから、ドライにならざるを得なかった。
傷ついた過去を否定することは、愛や当然の承認を求める自分を否定することは、本人にとってとても哀しい。なぜならその否定が、自分で自分を生きづらくさせることにつながるから。
自分が自分の感情と正面から向き合うことを拒否し、それでもこぼれてしまう感情と対峙して、自分のカッコ悪さに落ち込まなければならないから。
すべてのドライ論者、自分にとってそれが危険でかなしい在り方だとわかったうえで。
まあそれなりにがんばって生きてくれ。
わたしは、「私、ドライだから」なんて、絶対に言いたくない。
(昔言ってたけど、言いながら感情垂れ流していてあまりにカッコ悪いことに気が付いてやめた。)
土曜23時半、蔵前のさびれたバッセンとか、そういう風景
蔵前を出たときには真っ暗だった空も、浅草橋に差し掛かると白んできて、神田に着くころにはもはや青みがかる。
浅草橋のシモジマの前とかを、人っ子一人いないのをいいことに、つい先日観た映画のせいで再度ハマった神聖かまってちゃんのフロントメモリー(最新バージョンは亀田誠治によって大衆適応度MAXにデフォルメされていてそれも結構好き)を熱唱したりしながらふらふら歩いて帰った。がんばーろっかなきょうは、それはきのーおーのつづーきー、とか呟きながら。で、あーきっとこういう時の風景って、あんまり忘れないんだよな、とかぽろぽろ考えた。
忘れがちだけど会社の同期って、実は大学生のときからの付き合いだから、彼らに会うときは若干みんな22歳に戻っている。蔵前で遊んでいる酔っぱらい同期の誘いを少し渋ると「は?だってお前住んでんの神田やろ?浅草なんてもう神田みたいなもんやん」とかキレてくる感じ。そういうの、会社ってコミュニティではこのご時世、「同期」の肩書きを持つ人以外はなかなかできない。だから口ではキレ返したりしながら、なんだかんだ嬉しかったりするもんである。
5年後にも10年後にもきっと鮮明によみがえる記憶って、きっとこの日のきたねえバッセンとか(急に動体視力ゲームやらされて負けて1,000円カード買わされたの意味わからん)、ゲーセンで4,000円使った結果ハリボー3個しか取れなかったとか、誰も得しないのにカラオケに深夜フリータイムで入って得点争い始めて、得点争いだっつってんのにモー娘。のシャボン玉を踊りながら熱唱する同期とか、音程が微妙に外れ続けるレミオロメンとか、星野源のドラえもんを歌おうとしてたのに人にとられたからって「あんなこといいな」のドラえもんを突如歌いだす人とか、そういう記憶なんだと思う。
たとえば、文化祭が終わった20時、中2の後輩に「わっ、わたしい、あだ名とかつけてもらったのとか初めてでえ、ほんとうれしくてえ、」と嗚咽とともに感謝された涙の都営新宿線とか(私は真面目な高校生だったので文化祭実行委員をやっていた)。
たとえば、大学生らしくとりとめのないことを話しつづけてなんとなく眠くなってきたので解散して、午前3時くらいに根津の友達の家から自転車をギコギコこいで帰るときの閉まってる赤札堂とか。
たとえば、同期とご飯は食べ終わって店も出たのになんでか話が止まらなくなっちゃって、とりあえず座った広島のフジっていうスーパーのベンチでなんかめっちゃ蚊にさされた社会人2年目の深夜12時とか。
たとえば、猫の目線の映像を撮りたくて、突然谷中銀座に16時くらいに行って、茂みの中に腕を突っ込んでカメラを回した19歳の日曜日の眩しい夕焼けとか。
なんでかわからない時間の、なんでかわからない風景が、なんでかわからないけどいつまでも残っていたりする。同じ23時半でも、六本木のおしゃれなバーでイケメンな男性と飲んでいる風景よりも。
で、そうしてなんとなく脳裏にこびりついている映像は、若さの象徴なのかもしれない。そこから先の記憶は、きっと文章になっていく。言葉で考えてしまう自分なので、映像で残せる記憶をたくさんとっておきたい。意味のないことだってたくさんしたい。
「楽しいことしよう」という誘いは、海とか山とか、リムジンとか、フェスとか、必ずしもそういうのじゃなくても。下町のきたねえバッセンでもいいのかもしれない。
ちなみに、六本木のおしゃれなバーで女友達と泥酔しながら悪口いっていたことはあるけど、六本木のオシャレなバーでイケメンな男性と飲んだことはない。
誰か!!!!オシャレなバーで私と飲むイケメンを連れて来い!!!!!風景とかどうでもいいから!!!!!!!
コナン君への懐古ではなく、私たちは降谷零からの新しい刺激を待っている(ゼロシコ祭りを理解する)
コナン、もはや子供に観せる気ゼロじゃん。
『劇場版名探偵コナン ゼロの執行人』を観終わってひとこと目の感想はそれだった。
改めて記載するまでもないけれど、94年に連載開始、96年にテレビアニメ放送開始、97年に劇場版第一作が公開。時期的に、名探偵コナンは私のような92年生まれ前後の世代がど真ん中である。で、我々がメイン読者・視聴者だからといって、表書き上は子ども向けアニメなので、一応は小中学生を対象にした内容であるべきだ。
だがコナンはここ10年くらい、そして2018年さらに、わかりやすく子供向けの領域を超えてきている。
その理由として挙げられる点は3つ。
①印籠コーナー
②相棒的側面
③オトナの男
①に関しては、ここ10年の劇場版コナンで我々はいやと言うほど見せられてきた。もはや製作者はコナンをコメディ映画にしたいのかと思わせる印籠コーナーの数々。後に詳述する。②、③は、少し大人になってきた私たち世代にさらに可愛がられるため、今年から彼らがブチ込んできたオトナ要素である。「ゼロシコ」で始めてこの要素を発見した私は、冒頭の「子どもに観せる気ゼロ」を感慨とともに再び実感することになった。これらの3点について下記にとうとうと語りながら、なぜ我々は「ゼロシコ」にフィーバーしてしまうのかを考えようと思う。
①もはや繰り返すことが面白くなっちゃってる「水戸黄門の印籠コーナー」の数々
いや、ここ10年くらいの劇場版を毎年観ていて、なんとなく気付いてはいた。もう、あれだよね、製作者の方たち、面白くなっちゃってるよね?作るの。いや、映画を製作する方がそれを作るのを面白いと思うのは至極当たり前のことだし最高のことなんだけど、いや、ちょっと度を超して面白くなっちゃってるよね?
・最近そのセリフが出る必然性すら考えることを諦めている唐突の「蘭…!」
まずこれ、これ本当にひどい。コナンの劇場版ではコナンが幼馴染の蘭の命の危機を察し、「蘭…!」と心配する、または「ら~~~~~ん!」と助けに行く、そのいずれかのシーンが必ず登場するわけだけれど、10作目くらいから「蘭…!」と心配するシチュエーションの必然性よりも、どうにかして「蘭…!」と言わせなければならないという焦りと強迫観念が感じられるようになってきた。今回の「蘭…!」登場シーンもひどかったが、ネタバレを避け2011年『沈黙の15分』を取り上げる。雪崩に巻き込まれ雪に埋まり、意識が遠のいたコナン君。「新一……」とだいぶ遠くで蘭が祈ったとたん(祈っただけ)、聞こえるはずもないのに「蘭…!!」となぜか目を覚ます、などといった使い方をされている。
・×アクションシーン ○爆笑シーン
もはや笑えるほど豪快な「アクションシーン」ならぬ爆笑シーンについては、この10年に始まったことではない。2001年『天国へのカウントダウン』あたりからすでに始まっていた。ビルからビルに飛び移るとか正直めちゃくちゃ面白い。トムクルーズだってやってないでしょそんなこと(やってたらゴメン)。2016年の『純黒の悪夢』では、転がる観覧車の鉄筋の上で安室透と赤井秀一が不必要な殴り合いを実施していた上、転がる観覧車が人々を襲おうとするのをコナン君がたった一人の力で止めていた。今年の「ゼロシコ」に至っても、爆笑アクションシーンが後半盛りだくさんになっているので、是非楽しみに観てほしい。
他にも、誰も必要としていない阿笠博士のクイズコーナーや「あれれ~?」や突然曇るメガネなど色々あるが長くなるので割愛する。こうした数々の水戸黄門の印籠的シーンのお陰で、コナンの上映館はいかにシリアスで大層なシーンでもわりと笑顔と笑い声で溢れている。昔からコナンに慣れ親しんでいる我々にとって「毎度おなじみのツッコミ所」としてかならず投入されてくるため、常連を楽しませる実に涙ぐましい配慮にも見えるが、確実に作っている方が面白くなっちゃっているだけである。この点で、10年ほど前からコナンは子供に見せる気が毛頭なくなっていると感じていた。
だが「ゼロシコ」では、こうして小出しにしてきた「子供に観せる気ない」をさらに堂々と宣言している。むしろ、「大人に観せる気」で作っているという印象であり、その理由が、これまでの劇場版コナン作品にはなかった下記の2点だ。
②相棒的側面
圧倒的ヒューマンサスペンス。それがゼロシコである。①の爆笑アクションシーンの連続のあと、空気は一気に重たくなり、警察・検察それぞれの公安、そしてその関係者の葛藤や人生にフォーカスされる。人気声優やゲスト俳優たちの熱演により、まるであの名作刑事ドラ『相棒』のような具合のいい重たさが創出されていた。ここ数年の水戸黄門でしかなかったコナンとは一味違う、太いヒューマンドラマを見せられた。
③オトナの魅力溢れすぎて、工藤新一も服部平次も怪盗キッドも蹴散らした降谷零
降谷零=安室透の魅力をこの映画を通して語ろうとするとネタバレになるのでなかなか難しいのだが、工藤新一、服部平次、怪盗キッドなどこれまでのイケメンキャラをしのぐ色気の描かれ方だった。29歳の水も滴るいいオトコの、「仕事に対する熱意」という魅力である。こんなの17歳のバーローたちにわかるわけがない。
※2014年、2016年とメインキャラにされた赤井秀一もまあカッコいい大人のおじさんなんだけど、「ゼロシコ」での降谷さんほどの色気を以て描かれていない。かわいそう。
②③を通してわかるのは、製作者の方たちが、我々世代がそろそろオトナになってきていることを意識し始めた、ということではないかと思う。コナン連載開始当初2歳だった私ももう25歳である。蘭ちゃんよりとっくの昔に年上である。そりゃ、そろそろ17歳のバーローにいちいちきゅんきゅんしてられない。あるいは、「蘭…!」や「ウオォォォォォォ」というアクションシーンに笑っているだけでは飽きがきてしまう(10年腹を抱えて笑いながら観てきたので飽きることも別にないんだけど、そういう配慮があったのではないだろうか)。
そうやって大人になってきた私たちに、新しいコナン映画の魅力、相棒的側面とオトナの男を投入してくれた「ゼロシコ」。そりゃあ、「降谷」のハンコが売り切れても仕方ない。
「子供に観せる気ゼロ」ではあるけれど、むしろこれからはもっともっと大人、というか、大人になった私たちに見せる気、なのではないかな?という予感を感じさせてくれた今作は、コナンファンだけではなく我々世代にとってなかなか嬉しい劇場版コナンだった。祭りだ。世の90年代生まれたち、ゼロシコを観よ。執行されろ。ゼロシコr(規制)