「私、ドライだから」なんて、絶対に言いたくない
結論から言うと、世の中で一番かっこ悪い人は、「僕/私ドライだから」というウェットな人だと思っている。
でこういう人、意外と結構いる。
「自分、情とかあんまりなくて、自分にメリットのある人としか付き合わないんだよね~」と言いながら、自分にとってメリットのないはずの何も持たない年下たちに説教を垂れるバッキバキに承認欲求の塊なお兄さんお姉さんとか。
「自分、付き合った人とそんなに連絡とか取りたがらないタイプで、いつもすごい束縛とか嫉妬とかされちゃって困るんだよね~」と言いながら、自分の方を向かない相手には狂気じみたアピール(という名のストーキング)をする坊ちゃん嬢ちゃんとか。
「あー、前に付き合ってた女?飽きたから捨てたわーwwもう連絡返してない。俺そういうとこドライだから」と言っていた先輩は、飽きたから捨てた連絡返してない女の話を2,3年にわたり500回くらいしていた。飽きたから捨てた連絡返してない女の存在は自分の尊厳と自己肯定感を保つのにそんなに必要か。そうなのか。
少し前に、「私、ドライだから」みたいなことを公の場で言ってド炎上していた人がいる。
医学部に行く女子の合格点が違うなんて差別だ!とか色々書かれていますが、そんなのは私が医学部受験していた頃から赤本にも書いてある有名な事実。予備校のバイトだってみんな知っている。
— 菅谷明子@那覇市民 (@9moji_hantai) 2018年8月2日
その程度の壁越えるしたたかでしなやかな女性でないと、医者なんてやれません。ご心配なく(笑)
東京医科大学の、入試における女性一律減点が問題になり、人々が口々に性差別を批判する中で話題になったこのツイート。産業医であり全国医師ユニオン設立メンバーであるという彼女の発言は、一方では支持され、一方では批判された。
"加害者の罪を許し受け入れることを美徳としなければ、自分が耐えてきた苦痛が無意味になってしまう。だから差別に甘んじて迎合することがカッコイイ姿であると豪語するのは自由。だが、同じ考え方を他の被害者にも押し付けるのは、自身も加害者になるのと同じだ"というまっとうな批判が目立った。
わたし(きえんご先輩)自身は自分の女性としての社会での立ち振る舞いを省みたうえで、菅谷さんの意見の内容自体に対しては明確な是非を唱えないことにしている。(詳細は割愛するけれども女性としてまあまあ虐げられてきたしまあまあそれに迎合してきたクチなので、いつもこの辺の話題からは一定の距離を置いている)
その上で唯一気になったのが、菅谷さんの語り口である。140字という限られた情報のなかで、ひしひしと伝わってくる「私、ドライなので」感。
これは、すごく危険。誰にとって、かというと、本人にとって。
私は菅谷さんの親戚でも友達でも知り合いでもないので、この人のことは正直クッソどうでもいいんだけど、ある一人の人がこのような語り方をするのはその人にとってとても危険だし、かわいそうだと思った。
「自分はドライだ」と表現することによって、人は自分が社会構造や人間関係に対してウェットに振る舞うことを未然に否定している。つまり、自分は構造や関係性に対して傷ついたり、怒ったり、しんどくなったりしない、と明言しているわけである。
それによって、本人は実際に根っこの部分で傷ついたり、怒ったり、しんどくなったときに、それらの感情に蓋をしてひた隠しにしなければならなくなる。なんでかって、それらが出てきてしまったら、カッコ悪いし。自分のアイデンティティが揺らいでしまうから。
「ドライに振る舞う」ことについて語っている以上、そう振る舞わずに境遇に正面から向き合って傷ついた過去がある可能性が高い。正面から向き合って、戦おうとして、そして傷ついてしまったから、ドライに振る舞わざるを得なくなった。
これは、どの「私/僕ドライ」論者にも当てはまることだと思う。彼/彼女は、かつては愛情を正面から欲してみた。自分を正面から愛そうとしてみた。でも、かなわなかった。だから、ドライにならざるを得なかった。
傷ついた過去を否定することは、愛や当然の承認を求める自分を否定することは、本人にとってとても哀しい。なぜならその否定が、自分で自分を生きづらくさせることにつながるから。
自分が自分の感情と正面から向き合うことを拒否し、それでもこぼれてしまう感情と対峙して、自分のカッコ悪さに落ち込まなければならないから。
すべてのドライ論者、自分にとってそれが危険でかなしい在り方だとわかったうえで。
まあそれなりにがんばって生きてくれ。
わたしは、「私、ドライだから」なんて、絶対に言いたくない。
(昔言ってたけど、言いながら感情垂れ流していてあまりにカッコ悪いことに気が付いてやめた。)