コナン君への懐古ではなく、私たちは降谷零からの新しい刺激を待っている(ゼロシコ祭りを理解する)

コナン、もはや子供に観せる気ゼロじゃん。

『劇場版名探偵コナン ゼロの執行人』を観終わってひとこと目の感想はそれだった。

改めて記載するまでもないけれど、94年に連載開始、96年にテレビアニメ放送開始、97年に劇場版第一作が公開。時期的に、名探偵コナンは私のような92年生まれ前後の世代がど真ん中である。で、我々がメイン読者・視聴者だからといって、表書き上は子ども向けアニメなので、一応は小中学生を対象にした内容であるべきだ。

だがコナンはここ10年くらい、そして2018年さらに、わかりやすく子供向けの領域を超えてきている。
その理由として挙げられる点は3つ。
①印籠コーナー 
②相棒的側面
③オトナの男
①に関しては、ここ10年の劇場版コナンで我々はいやと言うほど見せられてきた。もはや製作者はコナンをコメディ映画にしたいのかと思わせる印籠コーナーの数々。後に詳述する。②、③は、少し大人になってきた私たち世代にさらに可愛がられるため、今年から彼らがブチ込んできたオトナ要素である。「ゼロシコ」で始めてこの要素を発見した私は、冒頭の「子どもに観せる気ゼロ」を感慨とともに再び実感することになった。これらの3点について下記にとうとうと語りながら、なぜ我々は「ゼロシコ」にフィーバーしてしまうのかを考えようと思う。

 

①もはや繰り返すことが面白くなっちゃってる「水戸黄門の印籠コーナー」の数々

いや、ここ10年くらいの劇場版を毎年観ていて、なんとなく気付いてはいた。もう、あれだよね、製作者の方たち、面白くなっちゃってるよね?作るの。いや、映画を製作する方がそれを作るのを面白いと思うのは至極当たり前のことだし最高のことなんだけど、いや、ちょっと度を超して面白くなっちゃってるよね?

・最近そのセリフが出る必然性すら考えることを諦めている唐突の「蘭…!」
まずこれ、これ本当にひどい。コナンの劇場版ではコナンが幼馴染の蘭の命の危機を察し、「蘭…!」と心配する、または「ら~~~~~ん!」と助けに行く、そのいずれかのシーンが必ず登場するわけだけれど、10作目くらいから「蘭…!」と心配するシチュエーションの必然性よりも、どうにかして「蘭…!」と言わせなければならないという焦りと強迫観念が感じられるようになってきた。今回の「蘭…!」登場シーンもひどかったが、ネタバレを避け2011年『沈黙の15分』を取り上げる。雪崩に巻き込まれ雪に埋まり、意識が遠のいたコナン君。「新一……」とだいぶ遠くで蘭が祈ったとたん(祈っただけ)、聞こえるはずもないのに「蘭…!!」となぜか目を覚ます、などといった使い方をされている。

・×アクションシーン ○爆笑シーン
もはや笑えるほど豪快な「アクションシーン」ならぬ爆笑シーンについては、この10年に始まったことではない。2001年『天国へのカウントダウン』あたりからすでに始まっていた。ビルからビルに飛び移るとか正直めちゃくちゃ面白い。トムクルーズだってやってないでしょそんなこと(やってたらゴメン)。2016年の『純黒の悪夢』では、転がる観覧車の鉄筋の上で安室透と赤井秀一が不必要な殴り合いを実施していた上、転がる観覧車が人々を襲おうとするのをコナン君がたった一人の力で止めていた。今年の「ゼロシコ」に至っても、爆笑アクションシーンが後半盛りだくさんになっているので、是非楽しみに観てほしい。

他にも、誰も必要としていない阿笠博士のクイズコーナーや「あれれ~?」や突然曇るメガネなど色々あるが長くなるので割愛する。こうした数々の水戸黄門の印籠的シーンのお陰で、コナンの上映館はいかにシリアスで大層なシーンでもわりと笑顔と笑い声で溢れている。昔からコナンに慣れ親しんでいる我々にとって「毎度おなじみのツッコミ所」としてかならず投入されてくるため、常連を楽しませる実に涙ぐましい配慮にも見えるが、確実に作っている方が面白くなっちゃっているだけである。この点で、10年ほど前からコナンは子供に見せる気が毛頭なくなっていると感じていた。

だが「ゼロシコ」では、こうして小出しにしてきた「子供に観せる気ない」をさらに堂々と宣言している。むしろ、「大人に観せる気」で作っているという印象であり、その理由が、これまでの劇場版コナン作品にはなかった下記の2点だ。

 

②相棒的側面
圧倒的ヒューマンサスペンス。それがゼロシコである。①の爆笑アクションシーンの連続のあと、空気は一気に重たくなり、警察・検察それぞれの公安、そしてその関係者の葛藤や人生にフォーカスされる。人気声優やゲスト俳優たちの熱演により、まるであの名作刑事ドラ『相棒』のような具合のいい重たさが創出されていた。ここ数年の水戸黄門でしかなかったコナンとは一味違う、太いヒューマンドラマを見せられた。

 

③オトナの魅力溢れすぎて、工藤新一も服部平次怪盗キッドも蹴散らした降谷零
降谷零=安室透の魅力をこの映画を通して語ろうとするとネタバレになるのでなかなか難しいのだが、工藤新一、服部平次怪盗キッドなどこれまでのイケメンキャラをしのぐ色気の描かれ方だった。29歳の水も滴るいいオトコの、「仕事に対する熱意」という魅力である。こんなの17歳のバーローたちにわかるわけがない。

※2014年、2016年とメインキャラにされた赤井秀一もまあカッコいい大人のおじさんなんだけど、「ゼロシコ」での降谷さんほどの色気を以て描かれていない。かわいそう。

 

②③を通してわかるのは、製作者の方たちが、我々世代がそろそろオトナになってきていることを意識し始めた、ということではないかと思う。コナン連載開始当初2歳だった私ももう25歳である。蘭ちゃんよりとっくの昔に年上である。そりゃ、そろそろ17歳のバーローにいちいちきゅんきゅんしてられない。あるいは、「蘭…!」や「ウオォォォォォォ」というアクションシーンに笑っているだけでは飽きがきてしまう(10年腹を抱えて笑いながら観てきたので飽きることも別にないんだけど、そういう配慮があったのではないだろうか)。

そうやって大人になってきた私たちに、新しいコナン映画の魅力、相棒的側面とオトナの男を投入してくれた「ゼロシコ」。そりゃあ、「降谷」のハンコが売り切れても仕方ない。

 

「子供に観せる気ゼロ」ではあるけれど、むしろこれからはもっともっと大人、というか、大人になった私たちに見せる気、なのではないかな?という予感を感じさせてくれた今作は、コナンファンだけではなく我々世代にとってなかなか嬉しい劇場版コナンだった。祭りだ。世の90年代生まれたち、ゼロシコを観よ。執行されろ。ゼロシコr(規制)

ちなみに私は25歳のいい大人ですが降谷零でも赤井秀一でもなく17歳の怪盗キッドがいまだに好きです。間違いなく。