任天堂は、全世代の思い出にいつもカメラ目線で見切れてくる

Nintendo Laboが発表されて、当たり前に日本が熱狂している。

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私自身もコンセプトムービーを見て「どんな天才がこれ考えたんだよ」と思ってしまった。遊びの場を画面から飛び出した世界に移す発想。子どもの創造力と探究心を養うゲームはもはや害悪ではないという親への啓発。ケガしないし、壊れてもすぐ直せる身近な素材から滲み出る「優しさ」…そんでそれらの魅力をドヤ顔で表現したカッコいいPV。企業ブランディングとかマーケティングとかそんな詳しくないけど、その辺の意味で完璧だ。いったい何人の秀才が集まって考えたんだこれ。そんな尊敬のまなざしが任天堂に向けられている。

 

「段ボールでコントローラー作れるようになるだけなのに、なんでそんなに熱狂するんだよ?」みたいな意見もある。確かに煽りすぎの感はある。でもあの企業はもはや長嶋茂雄とかミッキーマウスみたいなもんで、何をやったっていい方向に転ぶ崇拝の対象になっている。

 

コロプラを提訴しただけで「任天堂の法務部はコワいぞ…」みたいにいくつかの"伝説"が語られるような状況だし、そこから派生したタグ「#任天堂を許すな」にしたって、世の中の誰もが任天堂の、たとえば子どもへの神対応を、たとえば辛い時期の自分に笑顔をくれたクリエイティビティを語っている。Switchが欠品していたのだって、よく考えれば情けない話だ。単にそんなに売れる想定をしてなかったから製造数を絞ってたら、思ったより需要があって困ったことになっちゃったっていう流れのはずなんだけど、それもそれで「新しい発想でつくられたSwitch大人気だし任天堂ホント神様」みたいになってるし、もうアレだ、何やらかしたって良い印象になる。

 

なんでかっていうとたぶん、日本人に「任天堂と私」というテーマで作文を書かせたら、8割方の人は400字詰原稿用紙5枚は書ける、そういうことなんだと思う。

当たり前なんだけど、いつだって任天堂は私たちの傍にいて、新しい驚きを提供してくれた。たとえばそこに牛乳パックがあったとして、私たちはそれを開いてゴミにすることしか知らなかったんだけど、任天堂はそれと割り箸と輪ゴムを合わせてロボット人形を作る方法を教えてくれた。たまにフラっと現れて、ちょっと変だけど面白いことをたくさん教えてくれる近所のおじさんみたいな、漠然とした憧れと期待を抱く対象としてそこにいた。わくわくさん任天堂は、小さい頃の私たちにとってほとんど同じ遊びの先生だ。
だから皆、任天堂に対してでろんでろんに甘いんだよ。だってさ、常に私たちを感動させて世界を広げてくれた、わくわくさんのこと誰も批判できないじゃん。多分わくわくさんが不倫したって誰も叩けないよ。そういうことだと思う。死のうと思ってたときに任天堂のゲームが励ましてくれたとか、子どもが修理に出したら無償で直して返してくれましたみたいなそういうインパクトのある体験をしてない人でも、思い出を映像で振り返ると画面の隅っこにNintendoの文字が写っている。ポジティブな潜在意識の中にすっと入り込んで思い出に登場しやがるから、そりゃあ誰だって甘やかすよ。

 

私だって、エピソードを挙げろと言われたらいくつだってある。ホームビデオを観返したら3歳のとき骨折した足を机に置いて支えながら真顔でスーパーファミコンをやっていた(骨折してたって楽しいことは任天堂スーファミの中にたくさん隠しておいてくれた)。ゲームボーイカラーポケモンプテラをゲットしたのに、レポート書かずに電源オフしちゃったから姉に死ぬほどキレられて泣いた(ポケモンによって収集心と冒険心を教えられた私たちは、レアキャラを手に入れるのがこんなに難しくて達成感があることだなんてそれまで知らなかった)。小学生の時1回だけ64で家族みんなでマリオパーティーやったのなんか「わ!家族でマリパやってるのゲームのCMみたい!」と興奮したからすごい覚えている(小学生でメタ認知してるの気持ち悪いけど、それだけ自分のその状態が新しかったんだと思う。ゲームは一人で悶々とやるもの、という概念が幼心に覆されたんだろう)。

 

私たちと一緒に生活してきた任天堂は、私たちの子ども時代の記憶、10代の記憶の中にはっきりとその影を残している。ほかのオトナは教えてくれない、新しくて変わってるけどめちゃめちゃ面白い遊び方を教えてくれる変なおじさん。的な。私たちにとってはある意味で完成された「任天堂」像がもう出来上がっている。ポケモンGOだったりスーパーファミコンミニだったりの発売は、任天堂の思い出を持つ世代が一巡しきっていることを明確に把握している彼らが、我々の「任天堂」像に笑顔でアンサーしていることに他ならない。よね。だからさ、そんなことされたら好きを反芻するって。

 

そして彼らはさらに先に進んでいく。どういうことかって、一巡した我々のことはそれはそれで満足させておきながら、次の世代の生活に入り込み、一緒に思い出を作り、また新たな「任天堂」像を作らせようとしにきている。それがきっとNintendo Laboなんだ。彼らは2018年の子どもたち、10代たちの記憶映像の中でも、近所のオモシロいおじさんよろしく、しっかりとカメラ目線で見切れてくるわけだ。
その意思がひしひしと感じ取れるから、だから私たちは無条件にLaboに熱狂してしまうんじゃないだろうか。はあ、お前、また子どもたちに容赦なく思い出を与えるのかよ。俺たちにしたのとまったく同じように。もうやめてやれよ。くっそ。みたいな。

 

なんにせよ、任天堂がつくる遊びは私たちに活力を与えてくれる。Laboが次にどんな二の矢を打ってくるのか、楽しみにおとなしく待とうね。