19年10月15日のつれづれ

 


うん万円の3000字より0円の1000字をいま書き始めていることが、怠惰に他ならないことはわたしがだれよりも知っている。

 

憧れの出版社の憧れのメディアの著名な編集者に見つけられたことは光栄そのものだし今もここにわざわざ書くくらいには嬉しいのに、その3000字を書き始めるすこしの億劫さで、半年もろくに更新してなかったブログの新規作成画面を開く自分に若干の自己嫌悪を抱いたりする。そんな自己嫌悪も湯船に浸かったら代謝がよくなって汗と鼻水といっしょに流れていく。

 

文章からの逃避で文章を書く。いいじゃない、物書きよろしい。まだ何も成し遂げていないけど。

 

今日は会社でおじさんに、ヘアアイロンでやけどしたおでこの傷と塗り薬を茶化され「汗っかきかあぶら症かと思ったよ」とか言われて、「やだ~傷つく~そんなこと言ったら次の組合員アンケートで書いちゃいますからねっ」とか返して、でも別に傷ついてもいないしアンケートにも書かないし、特に怒ってもいない。

自分の醜さを笑いに変えられることをアイデンティティととらえるポジティブな感情を自ら否定し、ハラスメントをされたらきちんと真の感情で怒る、みたいなことを最近やってたけど、いまはもはやなんでもよくなってきた。無感情。(だけど数日たったらまたすごい勢いで怒ってたりするから大丈夫だよ、とか夫はいつも私に言う)

 

嬉しいことの嬉しさもかなしいことのかなしさも、19歳のころに比べたら5分の1くらいしか感じなくなった。たぶん20代の人生に慣れてきた。30代になったりしたらまた慣れない人生にうろたえたりするんだろうな。

変人になれないまま死ぬこともなんとなくわかった。変人になれないのに、たくさんの人がつくりだす空気のゆるやかな流れにはじょうずに乗れない。変人になれないのならせめて、空気のゆるやかな流れに乗れる人にしてほしかった。疑念を抱いたりしない生き物にしてほしかった。ねえ、わたしたちの創造主よ。

 

どうでもいいからイケメンにナンパされたいし、会社のいくつか上のまじめでかっこいい先輩とみんなには秘密の関係になったりしたい。こんなこと言うと何人かが「夫さんがかわいそう、きっと傷ついているよ」とか言ったりするんだけど、かわいそうなのか。と思って「傷ついているの?」と夫に聞いたら「なめられたもんだな」と笑っていた。人と人との関係性はその関係性の外にいる人が規定するものではない。

「なめられたもんだな」と笑うことだって無理してるんだよ。ほんとうは傷ついてるんだよ。そんな想像力もないの?という何人かもいたりする。夫の無理とか傷つきをどうしてその人がきめるのかよくわからない。だからさ人と人との関係性はその関係性の外にいる人が規定するものではないんだよ。

 

もてたい、沖縄行きたい、服ほしい、髪切りたい、ネイルしたい、

そんなんわたしたちのため息じゃんかねえと友達と言ったりしていた、わたしたちの吐いた二酸化炭素を必死でかき集めて地球温暖化について怒ったりしないでほしい。おれたちはおれたちでSDGs実践してるからさ、な。

 

うん万円の体系だった3000字を書くのが少しだけいやで、0円の体系だたない1300字を小さなダストボックスに投げ入れた。

まあ、それでもなんとなく体系だったり好きな言葉遣いしてしまったりしてるのをわたしはわかってるよ。変人じゃないから。わたしたちの主、イエズス・キリストによって。アーメン。

世界への殺意を失うことを、時代の終わりに恐怖して

7年前、20歳。私は世界に殺意を抱いていた。遅れてきた思春期だ。

自分よりも優れているもの、美しいもの、強いものへの激しい憎しみと、
自分よりも劣っているもの、美しくないもの、弱いものへの嘲笑と、嘲る自分への嫌悪。
ひとつめもふたつめも苦しくて、痛くて、つらくて、もうすべて無くなってしまえばいいのにと思っていた。
全員死ね、と、毎晩思って苦しんだ。

現在、26歳。私は世界を愛している。
空が青くて美しい。春の空気が澄んでいて草の匂いが美しい。
部屋の窓から太陽の明かりが差し込んだり、風に揺れるカーテンが外の空気を巻き込むのが美しい。
私を愛することに努力する人は、私に世界の平穏さと美しさを教える。
私は、私が言うところの「普通の人」になっている。普通に明るくて、普通に感謝して、素直にがんばったりする人。

美しくなることについて努力するのをやめたのは、きっと18歳くらいのときだった。
美しいものを美しいと思う・いいものをいいと言う精神を嘲笑することが、
自分にとって、手軽にアイデンティティを確立する唯一の手段だった。
そんな自分を醜いと軽蔑する視線や言動に、自己責任で傷ついた。
傷ついて、その軽蔑の持ち主を心の底から呪い、憎み、殺したいと願った。

いま、結局、最終的に、私は美しくなりたいと願っている。
安室ちゃん、エビちゃん、ガッキー、みたいな、そういう美もそうだし、
“酒の席で50代男性のハラスメントをにこやかに受け流しながらビールを注いでサラダを取り分ける”みたいな平成初期っぽい美もそうだし、
いわゆる“自分を信じているあなたが美しい”みたいな、平成末期っぽい美もそうだし、
とにかく、何らかの形で美しくなりたい、と願い、もがき、苦しんでいる。
美しくなりたいと願う気持ちの奥には、世界を呪う気持ちも、愛する気持ちも、混在している。

何らかの美を目指して、ジムで限界を超えるか超えないかの重りを乗せたマシンを上げながら、
私を選択してこなかった社会や、私を醜いと嗤った男女や、私を軽蔑した視線と言動を思い浮かべる。
自然と、「限界だ」という弱音がおなかの中からふわっと消えて、
自分史上最大の重量が上がる。
社会や男女や視線や言動やあれやこれやがどろどろと溶けて「殺す」だけがアドレナリンとなって残る。
殺す、あるいはお前たちを超えたい。

殺意をおぼえるタイミングは、ジムだけになった。
来る日も来る日もひざを抱えて世界を呪っていた7年前とは異なり、
今はダンベルに触れていないと、世界をどうしても愛してしまう。

徐々に消えていく殺意と反比例して、心が清くなっていくことへの恐怖が増幅する。
痛みや苦しみや自己嫌悪と引き換えに、私は他者の痛みや苦しみや自己嫌悪を理解する自分を手に入れた、と自分で思っている。
世界への殺意が、ガッキーみたいに美しくなりたいという気持ちの原動力の大半を占めている。
殺意を失うと、大事に大事に撫でて守って愛でてきた自分の傷が消えてしまう。

美しい調和。
「「普通の人」」を嗤うことで確立したかりそめのアイデンティティは、
そこから生まれた劣等感と殺意は。
たぶんきっと、いや確実に、本来の意味での「うつくしさ」とはかけ離れたところにいる。
新しい時代にうつくしい心で、オーガニックに美しさを求められたら100点。
きっと私は、しばらく社会の枠組みにとらわれて、
世界を呪ったり、愛したり、その憎しみと愛の遠心力で三半規管がダメになったりしながら、
もう少し苦しんで生きていく。

ありがとう、平成。
うるせえなあ、もう死んでくれ。

西武そごうの広告が炎上したので今一度、ちょうどいいブスについて考える

年が明けた。

さっそく、西武そごうの「私の時代」広告が、もはや茶番かというくらいキレイに炎上している。

pokonan.hatenablog.com

わたし自身は渡辺直美という明確なアイコンを支持していることもあって「私の時代」というキーワードには肯定的だし、言いたいことはわかる、という感じなんだけど、なんだけど。いかんせん上記記事で書かれているように文章構成がちぐはぐすぎてかわいそうなことになっている。センセーショナルなのはいいけど、そこらへんはデリケートだからもうちょっと校正しようよ~といち消費者目線で勝手に評価していた1月2日。

 

#MeTooの波が来て、伊藤詩織さんやはあちゅうが話題になって、ポリコレのポの字くらいは日本国民の100分の1くらいは理解し始めたのかなあという2018年。WEBメディアもテレビも新聞も、ハリウッドに続いてようやく「あ、なんかいまポリコレっぽく振る舞ってないと叩かれるんだな!?」と認識し始めたっぽい(未だに理解してないメディアも企業もある)。その表れが件の広告文なんだろうな。

 

目指すべき場所は完全に「わたしはわたし」だし、個の時代だし、渡辺直美なんだけど(要はリベラル)、そこに行く前に日本社会は、多分もう一回だけフェミ方向にハンドル切らないといけないんだよね。女の時代だぁ~とか言って。多分、偉い人たちとか声の大きい人たちは、もうそのハンドルは切りきったと思ってるんだけど、いや全然そんなことない。まだ切りきれてない(偉い人たちは切ってるけど、年齢層やエリアやその他もろもろの違いによってついてこれてない後方車両の人達がいる。私はそういう現場に3年生きたからわかる)。


で、実際はついてこれてない人たちがいる現状だから、西武そごうの広告はあんなことになる。書かれている文章をとんでもなくざっくり要約すると下記の通り。

 

①女って差別されてるよね最悪。

 ⇒本当の現状


②女って女だからって活躍しろってもてはやされてるよね最悪。

 ⇒本来、2018年の日本が到達しているべき地点


③私はわたしだよね。男とか女とかじゃなくて個の時代にしようぜ。

 ⇒目指すべき未来

 

つまり、目指すべき場所(リベラル=性別なんて関係ない、男だから女だからじゃなくて、個の美しさと魅力の時代だぞ)と、本来今到達しているべき地点(女の人を輝かせようぜ)と、本当の現在地(女が女と言うだけで差別されている)のギャップがすごいのに、その全部をひっくるめてなんかうまいこと人間を救う感じにしようとしているので、一貫性のない不可解な表現になってしまったという印象。

 

リベラルを目指す人は最初からリベリベ言うんだけれども、多分それって「女性活躍推進!」みたいな風潮がもっと当たり前になってからじゃないとまったく通用しない。男女関係ないよね!みたいな主張は、女差別だめだよね!を全員が理解している状況からでないと広がっていかない。

だからリベラルを目指す日本の一部の人が、本当の意味で理解しなければならないのは「今、日本、全然フェミに振れてないよ(振れてるの偉い人とか声のでかい人だけだよ)」っていう現状だと思う。

 

ただ、そうしたきれいごとがある一方で、「ちょうどいいブス」が支持される世の中も当たり前にある。

 

1月11日から日本テレビ系列で放送される『人生が楽しくなる幸せの法則』。

www.ytv.co.jp

相席スタートの山崎ケイの持ちネタ「ちょうどいいブス」としての生き方が『ちょうどいいブスのススメ』として書籍化され、さらにドラマ化されたものである。
ポリコレのこの時代に何、容姿による女性差別を助長するようなこといっちゃってんの!?とこれも茶番を疑うレベルでキレイに炎上して(いや炎上するだろ普通に)、上記のクソつまんなそうなタイトルに変更して放送されることになった。

 

ただ上に書いたように、「ちょうどいいブス」はまだ一部で支持される、というか支持しないとやっていけない人がたくさんいる世の中なのである。「ちょうどいいブス」は、2018年の本当の意味での現時点(女が差別されている状況)を、まっすぐ素直に受け止めたうえで、じゃあどうやってその中で女性は傷つかずに生きて行こう?と具体的現実的に考えた結果のスタンスだからだ。

 

こうした具体的現実的な、「差別されている女」の生存戦略がないと、生きていけない人が世の中にはまだたくさんいる。それが、2018年日本の現状だ。
だから、山崎ケイは人気になるし、書籍化だってするし、読売テレビはこれをドラマ化したら支持される=視聴率が取れると勘違いしてしまう。
私も然りだけれども、リベリベ言う人たちはまず、この状況をしかと受け止めなければならない。

 

その上で、どう主張するか。何を、どう変えていくべきなのか。
ハンドルをもっと切りきるのが正解なのか、被差別者という自覚を持ったうえでカスタマイズされた生存戦略を編み出すべきなのか、リベリベ言い続けるべきなのか。
2019年は、それを考えるべき年だと思う。

 

(私はサラリーマンなので、現実世界ではなんとかうまいことちょうどいいブスとフェミを行き来しながら、ネットの世界でぎゃあぎゃあリベリベ言おうかな…?と考え中です。がんばるぞぉ。)

今年のM-1グランプリは人生だった

終わってから2時間たっても動悸が止まらない。ため息も止まらない。

 

今年のM-1グランプリは人生だった。

 

会場の空気感なんだろうか、出場者のステータスなんだろうか、私が年をとったのだろうか。人生であり、そして時代について考えた(壮大)。和牛、ジャルジャル霜降り明星スーパーマラドーナ。みんなの人生について考えた(勝手)。

 

ラストイヤー40歳、M-1のことだけを考えてネタを作ってきたスーパーマラドーナ武智。松本人志に「何でこのネタやったん!」と怒られて絞り出した「すいません」。もうそれしか言えなかったよな。全力で作って全力でやったんだもん。これだけ考えて40歳まで生きてきたんだもん。私26歳のいまでこんだけ染みてるのにこれ40歳になった時に顔中塩水だらけにしないで観られる気しないよ。

 

トム・ブラウンに対する上沼恵美子さんの「未来のお笑いって感じだった、ごめんね、私の頭は古いから」というコメントから感じられる懐の広さにも心がやられた。私上沼さんの歳になって自分が理解できないお笑いされてごめんね私の頭は古いとか絶対言えねえよ!!大御所すげえよ〜〜!!!

 

テンポよく工夫された「例えツッコミ」による"近代的な漫才"を披露して空気をかっさらっていった霜降り明星。圧倒的に若い勢いと頭の回転。ひとネタひとネタボケでもツッコミでも笑えるから6秒動画にもできるし、正統派漫才としても4分観られる。最近の若い子たちの飲み会のやり取りの中でちょっと考えて放つ例えツッコミのお手本にもなる。

 

でその後の和牛。前半ヒヤヒヤドキドキ「でも和牛だからこっから面白くなるんだよな」と期待させて最高のオチ。どっしり構えたベテランの安定感。かっこいいよ川西さんと水田さん。超かっけえ。

 

だがしかしなんだよなあ〜〜。

 

きっと多くの人が今年は和牛が優勝すると思ってたし、優勝してほしいと思っていた。ファイナル3組目の霜降り明星が、七代目だけひょうきんな校長先生で会場をどっと沸かせるまでは。

 

確固たるこだわりを持ってずっと同じスタイルを貫いてきたジャルジャル。更にその上で、水田のひねくれボケを1ミリずつ大衆に寄せながら熟成させてきた和牛。

彼らの横を、圧倒的な若さと勢いと才能で、1992年生の霜降り明星がぶち抜いて行った。

優勝が決まった瞬間、いやったああぁぁぁぁあ!と叫ぶ霜降せいやの、キラッキラの満面の笑み。うおおおおおと雄叫びを上げた後笑顔で感極まる粗品。昨年のとろサーモンのただただ感極まる重みとは対照的な、若さの輝き。そして、その後ろで拍手しながら「良かったねえ」とほほ笑む和牛川西。これが大人だ…人生だ…。

 

一人も名前が挙がらなかったジャルジャル後藤の、一瞬カメラに写った苦い顔も印象的だった。自分のスタイルでやり切った、爪痕も残した、めちゃくちゃウケた、だけど審査員から名前はひとつも呼ばれなかったラストイヤー。

 

若手に追い越されながらも来年もチャンスがある和牛、M-1は引退となるがキングオブコントに優勝しているかまいたちに比して、スーパーマラドーナジャルジャルは、どこかで「これが俺たちの人生」という気持ちに落ち着くんだろうか。それとも、一生この経験を胸にしこりとして抱えていくんだろうか。それとも、決勝に勝ち進んだ名誉を踏み台に別の目標を見つけるんだろうか。

 

芸人としてしっかり売れてる。ネタに手応えもある。だけど、M-1に優勝していない。スーパーマラドーナジャルジャルにとってそれがどんな気持ちなのか、私にはわからない。

さんざん練習してきた。舞台も何千回、何万回と踏んだ。ボケにもツッコミにも安定して自信がある。だけど、勢いのある若手に負けた。空気を持っていかれた。そして、ヤツらは面白い。和牛にとってそれがどんな気持ちなのかも、私にはわからない。

 

M-1グランプリに人生を見た。

芸人の皆さん、勝手にすみません。

 

そして思う、霜降り明星は私と同級生の92年生まれ。

 

私も頑張ろう。会社員がんばる。私にはまだまだ若さと輝きがある。

ジャルジャルや和牛のように熟成される頃には、執行役員にでもなってやる。

ありがとう、M-1グランプリ

「ミニオンズかわいい」っていう女の子のことは信用しないようにしている

ミニオンズを見て、脊髄反射並のスピードで「かわいい~」という女の子が、日本の女の子人口の5分の1くらいいると思っている。

そういう子たちのことを、私は全然信用していない。

 

「かわいくねえだろ!嘘つくなボケ!」というそもそも論はもちろんあるのだけど、それだと完全なる私の主観でしかなくなってしまうので、もう少し距離を置いて考えてみようと思う。

 

ミニオンズをかわいいっていう女の子は、いったい何を考えて発言しているのだろうか。

下記の5種類に分かれると思う。(※どっちにしたって私個人の主観でしかないです)

 

ミニオンズかわいいと思っている勢

 

①-A 本当にかわいいと思っている

ちょっと私にはついていけない。私にこの人たちのことを責める権利はない。

 

①-B 本当にかわいいと思っているが、それをかわいい~と言っている悪意のかけらも持ち合わせてない自分もかわいいと思っている

トイプードルとかにも応用できる論理ですね。まあ自分のことをかわいいと思うのは自由なので、この人たちのことも別に責める権利はない。

 

①-C 本当にかわいいと思っているが、かわいい~と言っておくことによってUSJに行ったときにミニオンズコスしてそれをインスタに投稿することを目的としている

あれあれ、黄色いTシャツと黄色いニット帽とデニムのサロペット着て黒いデカいメガネかけてUSJの道のど真ん中にあぐらかいて低アングルの写真撮る人。確かにオシャレなんだよな~。お前ミニオンズよりもあのオシャレな格好の方をかわいいって思ってるだろ!!あのオシャレな格好するためだけにTOHOシネマズの最初に出てくる「いーるーみーねーしょーん」って言ってるミニオンズのこともかわいいって言ってるんだろ!!っていうね。

インスタの写真撮るときにあぐらかく意味だけはまったくわかってない。邪魔じゃね?

 

ミニオンズかわいいと思っていない勢

 

②-A ミニオンズはかわいくないと思っているが、それをかわいいって言う悪意のかけらも持ち合わせてない自分のことをかわいいと思っている

これはもう信用できない。こういう人ほど本気でかわいいと思っているかのようにかわいいというのでもう信用できない。いや可愛いと思われるためだけに嘘をつくのは女の子マナーとしてやってもいいことなんだろうけど、それ以外のところでも嘘上手いのかなこの人!?って思ってしまう。

 

②-B ミニオンズはかわいくないと思っているが、可愛くないものをかわいいっていう一風変わった自分のセンスを皆に知ってほしいと思っている

もうここまで来ると「①-A本当にかわいいと思っている」人と同じくらいついていけない。こういう話をすると「こんな拗らせた人いないでしょ~ww」と皆さんおっしゃるが、いや、いるからな。度が過ぎるとミイラかわいいとかゾンビかわいいとか言い出すからな。いい加減にしてください。チャッキーかわいいって言ってたらもうチャッキー家に置きだすので要注意です。命の危機です。

 

ミニオンズかわいいって言っている半数の女の子は「①-A 本当にかわいいと思っている」「①-B 本当にかわいいと思っているが、それをかわいい~と言っている自分もかわいいと思っている」なのかもしれないけれど、逆に考えればそれ以外の約半数の子は①-C~②-Bに当てはまるということになる。

だからこそ私は、「ミニオンズかわいい」っていう女の子のことは基本的に信用しないようにしている。本当にかわいいと思ってる子なら信用できるけど、いつどこに①-C~②-Bが潜んでるかわからないからな。

 

皆で目をつぶって、①-C~②-Bの子たちに、怒らないから正直に手を上げてもらいたい。もはやこれはミニオンズへの冒涜なので、罰として渋谷センター街か竹下通りのど真ん中で「ば、ば、ばー、ばー、ばーななー」って輪唱してもらいたい…と思ったけど、普通に盛り上がりそうだからやめておく。

#平成最後の夏 が終わるなら、僕たちは人生を始めよう  

“平成最後の夏”が終わる。

 

平成最後の夏って言われすぎて、最近「平成最後最後ってうるせえんだよ今年の夏だっていつもと変わらない夏の一つだよふざけんな死ね」っていう批判すら出てくるくらい言われすぎている。

 

あんまり騒ぎ立てたくないほうだけど、「#平成最後の夏」って言いたい気持ちはわからないでもない。

たぶんだけど、なんとなくだけど、

「僕たちの好きだった夏」が、どこかに消えていってしまうような気がするから、最後の夏を惜しみたい、という気持ちが生まれるんだと思う。

 

セミうっせーな!って思いながら、自転車のカゴにゲームボーイと通信ケーブルだけ入れて友達の家にペダルをぎこぎこ漕いだ午前中とか(限定ポケモンとか、ほかの色のソフト持ってる子と交換しなきゃだったし)。

もう昼間いると邪魔だからどっか遊びに行ってよ~ってお母さんに小言言われながら、お昼ご飯のあとに麦茶のみながら見た『大好き!五つ子』とか(ミホ腹立つけどかわいかったよね、のんちゃんいい子だったよね)。

近所の公園までお父さんについてきてもらってみんなで花火やった夜とか(小さいころは線香花火なんてつまんなくて全然好きじゃなかった)。

高校生のとき、明石家さんまが「もう最後!」って言って司会した27時間テレビを27時間みたくて白目むきながらテレビにへばりついてた土日とか(あの回はさんま&中居の今夜も眠れないに大竹しのぶが出てきたり、クライマックス手前で吉本のオールスターがペンキかけあったり車で轢きあったりやりたい放題で超面白かったんだよ)。

脱水症状レベルに汗かきながら冒険王に遊びに行った帰り、お台場の海でデジカメで写真撮ったりとか(運動会も音楽祭も文化祭も全部デジカメで写真とって焼き増したよね、動画も撮ったよね)。

 

 

そういう「僕たちの好きだった夏」の思い出たちが、過去のものとして消えていくような気がして。

もう、昭和みたいにさ、「ALWAYS」とか「オトナ帝国」とか、相対化された世界としてしか触れられなくなってしまう気がして。

次からあたらしい時代の若い夏に、がらりとアップデートされてしまうような気がして。

だからみんな、#平成最後の夏 って言いたくなってしまうんだと思う。

 

けどね、きっと大丈夫。

思い出は上書き保存じゃない。

 

ちゃんと名前をつけて保存すればいい。

 

あのポケモン交換も、五つ子の後のキッズウォーも、ペンキまみれのナイナイも充電すぐ切れるデジカメも、

全部全部ひっくるめて、「平成」っていうフォルダに保存しておこう 。

 

 

新しい時代の思い出を、上書き保存するんじゃない。全部思い出を突っ込んだ「平成」フォルダを作ってそっと閉じてさ、脳内デスクトップの隅っこに置いとこう。で、朝なんか起きられないときとか、体がなんか重だるいときとか、にっちもさっちも行かなくなったときとかに引っ張り出してこそこそ見つめてまた閉じればいいじゃない。

ナイトプールとか、おしゃれなカキ氷とか、スマホで撮った思い出は、また別の脳内新規フォルダを作ってそっちに保存していけばいい。

 

「平成」フォルダをデスクトップの端っこに眠らせておけば、それだけで、きっと一歩踏み出せると思う。

 

平成最後の夏が終わる。終わることがわかっているなら、「僕たちの平成」が終わることも、なんならもう終わっていることも、もうわかっているはずだ。

僕たちの夏が「ALWAYS」みたいになっちゃうのかな、っていう少し寂しい気持ちは置いておいて、僕たちは人生を始めよう。

 

 

昭和とか平成とかあたらしい時代とか、そんなのとは別のところで、ちゃんと時間は過ぎていく。

けれど、どうせひとつの区切りを感じているなら、それをスタートのきっかけにすればいいんじゃない?と思う。

 

新しいことに挑戦しよう。

ずっとやりたかったことをやろう。

あーだこーだ言わずに、まずは行動してみよう。

誰も笑わないから。

 

新しい時代はこれから生まれてくる「○○生まれ」の人たちだけのものじゃない。新しい時代を「平成生まれ」で作ろうよ。そのためには、ここからわたしたちが、わたしたちの人生をスタートしなければならない。初代ポケモンも五つ子も、平成が終わる前からもうずっと昔の話。振り返って、踏ん切りをつけて、一歩踏み出して。

たまに思い出しながら、恥ずかしがらずにあたらしい夏を作りに行こう。

 

だってさ、平成を作ったのは、昭和生まれの大人たちでしょ?

 

平成が終わるなら、次の時代を創るのは、平成に生まれた「僕たち」だ。

 今週のお題

近頃SNSアイコンとかによくある写真がよくありすぎるのでまとめてみた

いかんせんよくありすぎる。最近。おしゃれなSNSアイコン。

 

InstagramTwitterFacebookで誰かが変えた新しいアイコンを観るたび、すっぴんでベッドの上で「あ~~このタイプ~~~よくある~~~~すごくよくある~~~~~」と赤べこのように顔を縦に動かしている。

 

まあ、よくいる人のタイプとかよくあるインスタ映え写真とか、全米の耳がタコになるレベルで語りつくされているんだけれども、残念ながら私の耳はまだ全然タコになっていないし、到ッ底言い足りていないので、この場を借りてまとめさせていただきたい。

 

共感できる心がねじ曲がった人は「あ~~よくある~~あるある~~」と私の隣の赤べこになってください。

文句がある人は出てきてください。誠心誠意「ごめんなさい」って言います。

 

~近頃SNSアイコンとかでよく見る写真シリーズ~

 

その1 真っ白な背景・彩度高めで、仕事できそうな人が2ミリだけ口角上げてる写真

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とにかく仕事できそう。これに尽きる。

フリーランスで仕事してる人とかライターさんとかに多い。

「真っ白な背景ってそれ証明写真じゃん」と思った人、SNSアイコン検定で5級すら取れないので反省してください。彩度がすごい。陰影がすごい。影がとにかくくっきりしている。で、全身写真を切り取ってある場合が多い。

証明写真との違いは色彩とサイズだけではない。服装がとにかくクッソおしゃれ。服装が仕事できそう。女性の場合、原色のスキッパーシャツにワイドパンツとか履いて耳ちぎれそうなくらいクッソでかい石のイヤリングしてる。耳痛そう。(シャツの原色は、なんかからしチューブみたいな黄色とか林家ペーくらいのショッキングピンクとか)

男性の場合、ガッチガチにオイルで固めたツーブロックがギラギラ光ってて半数の人はジョンレノンメガネしてる。半数の人はたぶん蝶ネクタイとかしてる。 

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その2 ホテルのラウンジだかなんかでギャルがすごいおすまししてこっち向いてる写真

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ギャル、多分昔はすごいギャルだったんだよ。渋谷の109ですごいミニスカートとか買い物した後オニ盛りできるプリクラ撮ってたんだよ。多分中学のときイーストボーイで買ったベルトでスカート短くしたりしてベルト見つかって先生に怒られたりしてたんだよ。

ギャル、大人になったらモノトーンのすごいなんか高そうな服とか着ててすごい。(語彙)誕生日にはお互いディオールとかシャネルとかの口紅とか香水とかあげ合っててすごい。全員そろって5年前は右から左にバッサーかきあげた前髪してて今は全員揃ってぴったりした前髪なし濡れ感ストレートヘアーしててすごい。

そういうギャルたちが、夜景がきれいなホテルのラウンジとかでなんかすごいおすまししてこっち見てる。お前ら昔のピースサインはどうした。お手手ひざの上でそろえて偉いぞ。大丈夫か。お手手ひざの上でぷるぷる震えてないか。

 

その3 大自然をバックに明後日の方向見て爆笑してる写真

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だいたい海か山。だいたい自然光入ってる。

ただこの場合のポイントは「大自然」ではなく「明後日の方向見て爆笑してる」点。大体カメラ目線からちょっと横に外れてる。なんなの?カメラマンの左隣にサンシャイン池崎でもいたの?ていうかこの場合みんななんかしゃべりながら爆笑してる感じなんだけど、すごくない?

「あ~私今撮られてる~SNSのアイコンになりそうな写真撮られてる~」とか思わないの?「あ~いい感じに自然な表情撮られてるわ~飾らない私感出てる~これインスタのアイコンにしよ~」とか思いながらちょっと横向いて爆笑してるの?え絶対私だったら思っちゃうんだけどそういうもんでもないの?すごい(尊敬)

それとも何、「飾らない私感出すために爆笑してる写真撮って」って誰かにお願いして無音で爆笑っぽい顔だけして撮ってもらってるの?すごくない?

 

その4 古民家が立ち並ぶ道をバックに直立して微笑みをたたえている写真

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アースカラーの太いズボン履いた人が陶器とか持ってる。皿とか。あるいはなんかでかいカゴにいっぱいの野菜とか抱えてる。男の人はけっこうひげとか生えてる。女の人はXXLくらいのサイズ間の麻の白いノーカラーシャツとか着てる。

せんせー、この人たち絶対朝とか超早起きしてコーヒー豆から挽いてまーす。一杯の濃厚なコーヒーとともに朝日を迎えてまーす。怖いよ…絶対神楽坂のラカグにいるよ…あと絶対御徒町2k540とかいるよ…。

私も大人になったら絶対リノベーションした古民家をバックに写真撮るんだッ!民泊とかホステルとか作るんだッ!(情緒不安定)

あとこのタイプの写真アイコンにしてる人、すごい歯が白い。絶対にすごい歯が白い。歯磨きの仕方を教えてほしい。

 

その5 犬

 犬。

 

 

そろそろ満足してきたしいい加減誰かに刺殺されそうなので、この辺でやめておこうと思う。

「私/おれのアイコンカテゴライズされてなかった~よかった~」と安心した心のきれいな人たち、次は絶対どこかに当てはめるので覚悟しておいてください。また会う日まで。

 

世界は私たちが思っているよりももっと広くて、奥行きがあって…とかいうイイことを数日前に言っていたばかりなのでそろそろ死にたい)